詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋吉敏子/谷川俊太郎/Monday満ちる『希望』

2007-03-01 21:11:23 | その他(音楽、小説etc)
秋吉敏子谷川俊太郎/Monday満ちる『希望』

 秋吉敏子の曲・演奏に谷川俊太郎が詩をつけ、Monday満ちるが歌っている。発売からすでに何か月もたっている。感想を書こう書こうとして、書けなかった。

希望 それはこころ
あふれやまぬ ひとのいのち
よみがえる草木 朝日とともに
明日へとこころは かがやいて

忘れられぬ 日々も
子どもたちの 未来のため
こころよ飛べ 夢みる世界へ
希望 あふれて

 「希望」というより「祈り」に聞こえるのである。何度聞いても、いつ聞いても輝かしい夢があふれているという感じではなく、祈りとしか聞こえない。祈りの奥には不安のようなものもある。希望が人間を力強くしてくれるというような感じではなく、何もない、いやたとえ今が苦しく悲しくても、いのちを遠くへ遠くへと運んで行ってほしい、運び続けてほしいという祈りのように聞こえる。
 聞いていて元気になる、という感じではない。しかし、聞いていて、とてもこころが清らかになる。
 谷川の詩に「あふれる」(あふれやまぬ、あふれて)ということばが2回出てくる。あふれでていくものがある、ということが「希望」なのだ。あふれでていくものが、そのあふれでる力のまま動いていく、ということが自由であり、そこに「希望」がある、ということかもしれない。
 あふれでていくものを見つめ、それがそのままの輝きで動いていってほしいという祈り。祈ることで「希望」をみつめている曲なのだ。詩なのだ。
 秋吉敏子にも谷川俊太郎にも「希望」はあるだろう。しかし、彼らは今、自分の「希望」ではなく、子どもたちの「希望」、その「あふれる」いのちが、あふれるまま自由に動き、育っていくことを祈っているのだろう。そんなことを感じさせる曲である。


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森本敏子『無銘の楽器』

2007-03-01 20:42:13 | 詩集
 森本敏子『無銘の楽器』(編集工房ノア、2007年03月01日発行)。
 「遠い水の音」の書き出し。

短い晴れ間の後
どこかで遠い水の音がして
どうしても思い出せない川の名を
思い出そうとしているわたし
その川は子供が水遊びをするに丁度な
浅くて広い川

 「丁度な」。このことばがとても印象に残る。たぶん森本のことばは描いている対象と「丁度な」感じでつりあっているからだろう。むりにことばを動かそうとはしない。思い出そうとして、思い出せない何か。「思い出」(思い)を超えてしまってはならない、また「思い出」(思い)にとどかないものも困る。思いに丁度あうことばを森本は探しているということだろう。
 ここには「現代詩」の冒険はない。ことばを、ことばが生まれる前のあいまいな状況にほうり出し、そこから始まる新しい世界を切り開く、ことばの可能性を探るという冒険はない。そういう冒険はないけれど、この「丁度な」ことば探すということを森本は丁寧に積み重ねている。「丁度な」ことば以外をつかわないという方法によって。そこに誠実なあたたかみがある。
 「遊びぐせ」という詩がある。

たった一週間家を留守にしただけなのに
あたりはすっかり変わってしまった
遊びぐせがついたわたしが
置き去りにされたような気がする
何か日常が遊離したままなのだ

調子がずれてなかなかもとには戻れない
もととは何か
それは分かっているようで
分からないのでもとに戻れない
戻れなかったら何処へ行く

 森本の丁寧なあたたかさは、「もとに戻る」ということに基本があるのかもしれない。「もと」とは森本が書いているように何かはわからない。ことばにならない。それは森本の生活のなかで積み重ねてきた生き方の基本である。基本であるからこそ、ことばにならない。基本的なことはいつだってことばにならない。この詩のなかには物を片付けるシーンが出てくるが、物を片付けるというようなことは、一つ一つ、たとえば新聞はどこそこ、本はどこそことことばにはしない。ことばにしないで、肉体が動く距離(間合い)のようなものでつかみとっている。そうした肉体の一部になってしまった間合いが「もと」ということかもしれない。そういうものをなおざりにしない丁寧さが森本のことばを支えている。
 「いろ」という詩に美しいことばがある。5、6連目。

写生にきた小学生が
緑の重ね方に苦労している

色を混ぜて
絵の具にもない色も
出してしまう不思議さ

 木々の緑はどんなに絵の具を混ぜてもそれでは間に合わない色を持っている。それをつくり出しているは「もと」というものかもしれない。木の命である。人間も、木のように、どんなことばでもあらわすことのできない「もと」を知らず知らずに身につけているのだろう。それを森本は強引にことばにはしない。「丁度な」ことばを、丁寧に丁寧に探し続けるのである。

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イシュトバン・サボー監督「華麗なる恋の舞台で」

2007-03-01 09:44:43 | 映画
監督 イシュトバン・サボー 出演 アネット・ベニング、ジェレミー・アイアンズ

 映画を見ていて「おいおい、ほんとうに脚本を読んでいるのかい?」と言いたくなる演技にであうことがある。へたくそ、というのではない。うまいのである。たとえば「SAYURI」の役所広司。さゆりにいいように利用されて捨てられる。そういう恋の結末なのに、そんな結末など知らない感じで、さゆりはもしかしたら自分のことを好きなのかもしれないと心をときめかせている。脚本を読んでいれば捨てられることがわかるのに、そんな純情な男をやっちゃって……、と笑いながら、同時にほれぼれする。手抜きがないのである。こういう役者が私は大好きだ。
 アネット・ベニングは中年の女優。今は演技にも人気にも少しマンネリ感が漂う。その女優が、その名声が、若い野心家の青年にいいように利用される。最後は青年とその恋人を踏み台にして花を咲かせるのだが、青年にいいように利用されて、それでもうきうきするという演技がなかなかおもしろい。まるで青年との恋が永遠につづくと信じてしまっている初な輝きにあふれている。まわりの人から好奇の目で見られるのだが、人から好奇の目で見られるなんて最高--というような、一種、我を忘れた状態をいきいきと演じている。
 やがては青年に捨てられる、ということは、すでにこうした演技のありようから推測できるのだが、そういう推測をさせながらも、「おいおい、ほんとうに脚本読んだの? 最後は捨てられると知っていて、それでも恋に夢中になる演技を、こんなふうに、初に、まるで永遠につづくと信じている心そのものとして演じるのかい?」とチャチャを入れたくなるくらいなのである。
 ストーリーは波瀾万丈というか、逆に言えば、お決まりどおりの展開なのだが、その展開にあわせてのアネット・ベニングの七変化が、とてもおもしろい。映画で役を演じているのだから、結末がどうなるか完全に知っている。知っているのに、まるで結末を知らないかのように、その一瞬一瞬を浮かび上がらせる。こういう演技を見ていると、そうか、役者というのは「結末を知らない」と観客に信じ込ませる力をもった人間なのだとわかる。人間観察力だとか存在感とか、いろいろ役者を評価することばはあるけれど、「結末を知らない」と感じさせる力が一番大切なのだと思う。結末はどうなるかわからない。いま、そのときの一瞬だけが真実であり、それがどうなるかは誰も知らない。それがリアリティーというものなのだ。
 最後の舞台劇(劇中劇)が、とてもおもしろい。アネット・ベニングは映画のなかで「芝居」を演じている。恋のコメディーである。そこにはもちろん「結末」がある。「結末」へ向けて、「芝居」の共演者は演技をしている。最後の最後で、アネット・ベニングはアドリブで「結末」を変えてしまう。共演者は真っ青。何がなんだかわからない。脚本家も演出家もはらはらどきどきする。脚本のなかの「結末」を知らない観客だけが、いま起きていることがストーリーなのだと信じて、その「芝居」にのめりこむ。
 このどんでん返しは、とても、とても、とてもおもしろい。芝居、演技の本質を巧みに指摘している。芝居、劇、映画、ようするに「見せ物」というのは、ストーリーなど関係ないのである。どんなことだってストーリーになってしまう。ストーリーは自然にできあがってしまう。大切なのは、ストーリーがストーリーであることを否定してしまう(忘れさせてしまう)演技なのである。時間の流れを分断し、「一瞬」という時間へ観客を引き込む力なのである。「一瞬」のなかで、観客はストーリー、予定調和の物語を忘れる。純粋に、命そのものの輝きに触れる。
 どんでん返しの「芝居」のなかで、アネット・ベニングは若い女優に対して「あんたなんか、まだまだ私にかないっこないのよ」ということを見せつける。いわば「地」を出しながら、その「地」をストーリーにまぎれさせて観客をひきずりまわす。若い女優を裸にし、「地」を出させ、「地」と「地」で勝負する。それがそのまま「恋の勝負」そのものに急変する。観客は「恋の勝負」というストーリーのなかで、実際の「恋の勝負」あるいは女優生命をかけた勝負が展開されていることを知らず、ただ、その「真剣勝負」に引き込まれる。「真剣」こそが観客の視線を集中させる力なのだ。そういう意味では、観客の視線を集中させるできごとそのものが、ほんとうのストーリーだということができる。そして、観客の視線を集中させる「顔」そのものがほんとうのストーリーだと言い換えることもできる。映画スターが美男・美女でなければならない理由はここにある。普通の人を超越する「顔」の特権で、傍若無人に振る舞い、人生をかき乱してゆく--それがスターの特権であり、そういう特権こそが観客を引きつけるのである。
 アネット・ベニングは私にとっては「美人」ではなかった。矯正でつくりあげたような歯並びが不自然で、好きではなかった。けれど今回の映画で、あ、美人だと思った。特に、最後のどんでん返しの「ざまをみろ」と勝ち誇ったような演技が絶妙で、うわーっ、美人だと引き込まれた。役者の演技力というのはすごい。

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