詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三角みづ紀「白線の内側までお下がりください」

2007-03-28 23:51:16 | 詩集
 三角みづ紀「白線の内側までお下がりください」(「現代詩手帖」2007年04月号)。
 「白線の内側までお下がりください」。聞き慣れたことばである、ように思えるが、少し違う。最近は聞かない。最近聞くのは「黄色い線の内側までお下がりください」。たとえば新幹線のホーム。点字ブロックの黄色いライン。白線は私の利用している新幹線のホームにはない。
 「白線」とは何だろうか。

白線の内側までお下がりください
白線の内側までお下がりください
危険ですので
白線の内側までお下がりください
危険なんだよ
早く下がれよ

(絶望)

違います、(渇望)です。ひともじちがうだけでおそろしいことになるのです。

 私が思い浮かべるのは「死体」である。事故死した死体。そのまわりに引かれた白い線。
 「死」を私は体験したことがない。あたりまえのことかもしれないが、そうではないかもしれない。
 「死」を熱望したこともない。「死にたい」と思ったことがない。
 「死にたい」と思うのは「絶望」だろうか。「絶望」ではないような気がする。では、何か。「渇望」と三角は書いている--ように思える。あ、そうなのか。「死」は絶望して死ぬのではない。渇望なのだ、と思うと、ふっとわかったような気持ちになる。「死にたい」というのは、絶望しただけでは、実現できない。渇望しなければ、死を手に入れることはできない。力業なのである。エネルギーがないとできない。
 三角の詩と関係があるかないか、わからないが思い出したことがある。
 あるお婆さんの今際の際。とても苦しんでいる。見かねて、側にいた人が「もう少しだから、がんばってね」と手を握った。すると、お婆さんは、大きく息をついて、死んだ。死ぬのはとてもエネルギーがいる。力をふりしぼって頑張らないと、死ねない。
 たしかに、そういうことなのかもしれない。

白い線をひいた
あちこちにひいた
とらわれた
おおぜいの
あなたたち
わたしたち
鳥になんて
なるものか

 列車への飛び込み自殺、ではなく、ビルからの飛び下り自殺。その死体の場所。白線。白線の内側。とらわれた人。その形。そのもの。鳥のように空を飛ぶのではない。鳥を拒絶して、墜落する。死への渇望。
 だが、三角は生きている。死への渇望を引き止めているものがある。何か。「絶望」だ。

(絶望)

違います、(渇望)です。ひともじちがうだけでおそろしいことになるのです。
ああ、ようやくわかりました。わたしたちもあなたたちも色が違ってもおんな
じなんです。かたちをとどめていなくともおんなじなんです。おんなじなのに
どうして、こうやって、つながれないのですか。

 「死」と「つながれない」--そのことが「絶望」だ。死んでしまったひとたちは、どこかでつながっている。そのつながりを生きている三角は感じる。しかし、三角自身は、死んだ人との「つながり」を感じられない。つながりを渇望しながら、つながることができないことに絶望している。
 どうしようもない苛立ちがことばを動かしている。

 危険な熱さが、ある。この熱さは非日常ではなく、日常のなかにうごめいている。「白線の内側までお下がりください」という日常的に聞くことば--実際は、聞いていると勘違いしていることばのなかに、うごめいている。
 「白線の内側までお下がりください」。日常的に聞いていると勘違いしている。頭の中で信じ込んでいる。本当は、そういうことばは日常には存在しない。違っている。違っているけれど、私たちは、かってにすり替えて理解している。自分の都合のいいようにすり替えている。
 「黄色い線の内側までお下がりください」なのに、「白線の内側までお下がりください」ということばに出会った瞬間、「黄色い線」と聞いたはずなのに「白線」とすり替えて、駅のホームを連想する。そうした「ずさん」な想像力。そういうものに対して、三角は、ほんとうは怒っている。そういう「ずさん」な想像力が「絶望」と「渇望」を読み違える。すり替える。
 三角の怒りは、とても熱い。「詩」という形で発散しなければ、たしかに燃え上がってしまうだろうと思う。

コメント
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