山岡遊「抒情誤爆」(「佃」1、2007年春発行)。
2連目がたいへんおもしろい。
あ、山岡は詩集読みながら、「カナシ」「サミシ」が何回出てくるか丁寧に数えたのだ。その丁寧さに引き込まれる。朔太郎詩集を読んでみようかな、という気持ちに誘われる。
もし現代に「抒情」というものがあるとすれば、こうした丁寧な無意味さのなかにあるんだろうなあ、とも思う。その無意味さにつきあう形で、鉛筆を片手に朔太郎詩集を読んでみようという気持ちにもさせられる。
「カナシ」「サミシ」が何回出てこようが、その回数によって「かなしい」「さみしい」の意味合いがかわるわけではないはずだが、山岡のように丁寧に数え上げれば、何かがかわるはずである。
朔太郎の詩集に「カナシ」「サミシ」が何回出てこようが(それが何回つかわれているか数え上げることが)、詩そのものには関係ない。「カナシ」「サミシ」回数ではなく、それがどのように定義されているかを見ていくことが大切なはずである。「カナシ」「サミシ」が、そのつどどのような意味でつかわれているかを分析しないで、「数」の問題にしてしまうのはナンセンスである。
しかし、そのナンセンスのなかに、たぶん抒情はあるのだと思う。
2連目がたいへんおもしろい。
二日かけて読んだ
萩原朔太郎詩集の『月に吠える』から『氷島』までの
一一二篇の詩群
その六十九篇には
四十四匹のカナシの蛾虫が羽を広げて停止し
五十九匹のサミシの蜘蛛が霞のように巣を張って
読者を待っておりました
あ、山岡は詩集読みながら、「カナシ」「サミシ」が何回出てくるか丁寧に数えたのだ。その丁寧さに引き込まれる。朔太郎詩集を読んでみようかな、という気持ちに誘われる。
もし現代に「抒情」というものがあるとすれば、こうした丁寧な無意味さのなかにあるんだろうなあ、とも思う。その無意味さにつきあう形で、鉛筆を片手に朔太郎詩集を読んでみようという気持ちにもさせられる。
「カナシ」「サミシ」が何回出てこようが、その回数によって「かなしい」「さみしい」の意味合いがかわるわけではないはずだが、山岡のように丁寧に数え上げれば、何かがかわるはずである。
野に 山に 村に ひとに
アワレの飛蝗
ミジメのキリギリス
憂鬱のこうろぎだちが
適度に分布されており
はたして
彼の「生きていく心理学」とは
永遠の昆虫採集だったのでしょうか
朔太郎の詩集に「カナシ」「サミシ」が何回出てこようが(それが何回つかわれているか数え上げることが)、詩そのものには関係ない。「カナシ」「サミシ」回数ではなく、それがどのように定義されているかを見ていくことが大切なはずである。「カナシ」「サミシ」が、そのつどどのような意味でつかわれているかを分析しないで、「数」の問題にしてしまうのはナンセンスである。
しかし、そのナンセンスのなかに、たぶん抒情はあるのだと思う。