詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」

2007-03-07 23:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)

 入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」(「現代詩手帖」2007年03月号)。
 後鳥羽院の「蛙なくかり田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音」をめぐる長編詩である。「パート二 伝承--引用の織物」がとてもおもしろい。
 後鳥羽院の歌は、蛙の声がうるさいので黙れと言ったら蛙は鳴かなくなった。そばにある松の木も静まれと言ったら葉ずれの音をたてなくなった--という意味らしい。そういう伝承をいくつものテキストから引用している。ほとんど同じ内容であり、なぜ複数のテキストを引用する必要があるのか、と思ってしまいそうだが、同じ内容のテキストを丁寧にいくつもいくつも引用する。
 そして、引用の最後に、一人だけ違った解釈をするひと(野津龍)の意見がそのまま書かれている。その一部。

 これらは伝説の発展か、もしくは誤解に基づく潤色であった。歌からするならば、後鳥羽院は、蛙の声にかき消されそうになる松籟(しょうらい)を愛(め)で、あるいはそこに世の無常を感じていたといってもよいのである。いつごろからこうした誤解が生まれたのであろうか。

 「誤解」そしてその「伝承」。そのことについて、野津はさらに書いている。

 けれども私は、これもって誤った伝説として耳をふさぐつもりはない。(略)より大切なことは、そういう具合にでも伝説を発展させずにはいられなかった隠岐の人々の心情であり、つきつめていえば、貴人に対する信仰であった。

 「誤解」のなかには人間の心情がある。心情が「誤解」を支えている。ひとは「正確」であるかどうかよりも、どう思いたいかを優先する。事実をねじまげてしまう。それは延々とつづくのである。
 入沢は、この野津の説を「正しい」と判断するのだが、それだけではなく、同時に「誤読」そのものを大切にしている感じがする。
 入沢は野津の説そのものよりも、そこに書かれている「誤解」ということばそのものにひかれているような感じがする。
 想像力を定義して、事実をねじまげて見る力、事実から逸脱して行く力と定義したのはバシュラールだった。その事実をねじまげる力、自分の見たいように現実を見てしまう力に、入沢は共感している。
 「誤解」のなかに、あるいは「誤解」する力のなかに「思想」がある。人間のこころがある。入沢は、そう信じているように感じられるのである。
 「誤読」であるはずの「伝承」をいくつもいくつも丁寧に引用しているのはそのためである。「誤読」を指摘するだけなら、ほとんどそっくりそのままの「伝承」を全部引用する必要などない。本のタイトルと筆者、その本の発表年代をあげることでも充分である。しかし、入沢はそういう方法をとらなかった。あくまで引用にこだわった。それはその引用のなかの「差異」そのものが「誤読」であり、誤読とはそんなにまでいくつもいくつもの形をとるということを量そのものとして明らかにしたかったからであろう。
 この「誤読」の指摘の瞬間、それまでの長い長い「引用」の集積が突然輝く。そういう不思議な作品である。

 そして、このときから、入沢のことばの運動は急に変化する。

 「誤解」の指摘というか、「誤読」ということばを起点にして、野津の説が、それまでの「伝承」とは違った部分へと動いて行く--そのこと刺激されて、入沢自身のことばも新しい方向に動きだして行く。それはまるで、入沢は野津の説が正しいと信じるから野津の説に与するというよりも、そこに「誤読」の指摘があり、その指摘とともにことばが動いていくからこそ、それを肯定するという感じすらする。
 入沢は、ことばが動いて行く瞬間が好きなのである。その瞬間にこそ与するのである。
 いくつも伝承こそが正しく、野津の説こそが「誤解」であるかもしれない。そういう説があるかもしれない。しかし、そういうことは入沢にとっては副次的なことである。「誤解」ということばに触れたために、それまでのことばの動きが自由になり、ことばの動きが加速する--その加速のなかへ入っていくことが、入沢にとっての「詩」である。

 野津の「誤解」を指摘する説を引用した後、入沢の詩は激変する。起承転結ということばがあるが、「パート三」はまさに「転」である。
 語鳥羽院の歌のなかにあった「夕たたみ」ということばに限定して、入沢は思いめぐらす。そこでも「引用」がこころみられているが、「パート二」の引用と「パート三」の引用では、引用の仕方がまったく違う。
 「パート二」では単にこれこれの説がある、ということを紹介する引用だったが、「パート三」では入沢は入沢の「仮説」(「夕たたみ」は「夕すずみ」であるという仮説)を証明するためにさまざまなテキストを引用する。「パート二」では同じことが引用され続けたのに対し、「パート三」では違ったものが引用され続けるのである。
 それは「正解」にたどりつくための補強としての引用であるけれど、不思議なことに、それを読むと、入沢は「誤読」を補強するために引用しているというふうに感じられるのである。「正解」を探すふりをして、積極的に「誤読」の世界へ入って行くというふうにも感じられるのである。
 なぜ「誤読」の世界へ入っていくのか。
 「誤読」のなかにこそ、人間の「心情」というものがあるからだ。「信仰」というものがあるからだ。つまり「思想」があるからだ。そして、この「誤読」のなかに人間の心情があるという考えは、野津の考えでもあった。その考えにこそ、入沢は与し、その考えからエネルギーをもらって、「パート三」へと突き進む。

 「正解」はもちろん重要である。しかし「誤解」はもっと大切である。ほんとうの気持ち「心情」がそこには含まれている。「信仰」が「思想」が、その力ゆえに事実をねじまげてとらえてしまう。そして、それを「伝説」にしてしまう。

 入沢は、ことばを、「伝説」あるいは「神話」と言った方がいいかもしれないが、人間が「思想」を託した最初の状態にまで引き戻したいのである。引き戻そうとしているのである。



(この文章は、7日23時に書いたものを、8日13時に幾分修正しています。)
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