詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「かさぶた」「糸みみず」

2007-03-31 11:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 長嶋南子「かさぶた」「糸みみず」(「暴徒」56、2007年03月18日発行)。
 「かさぶた」は変な詩(いい意味である)である。「子ぶた」をもらって育てている。「子ぶた」は「大ぶた」になり、雨の日は笠をかぶせてやって「笠ぶた」。そしてそのあと、

ぶたにやる芋を切っていたら指を切ってしまった
走り寄ってくるぶた
傷口をなめまわす
あっというまにかさぶたになった

 ことばの遊び--と言ってしまえばことばのあそびなのだけれど。その「遊び」のなかに、どうしても長嶋がまじってくる。彼女の生きてきた時間が入り込んで、「遊び」をゆがめる。そこがおもしろい。
 「笠ぶた」は「かさぶた」を引き出すための入口のようなものだけれど、なぜ「笠」ぶた? 「傘」ぶたではない? 「笠」は手に持たなくてもいい。「傘」は手に持たなくてはならない。手のないぶたには「傘」はむり。「笠」でないと……。
 論理的に見えるけれど、とても変。
 「笠」って、今、どこにある? 阿波踊りか風の盆の踊りか、そんなときにかぶるくらいだろう。昔は、たしかに雨の日の野良仕事には不可欠だったが、そんなものが今、どこにある? 長嶋の家には「笠」をおいてある?
 そうした今はないけれど、長嶋の記憶にあるものが、今、ここにふいにまじってくる。そのことろが、妙に変で、妙におかしく、それだからこそ、何かほんとうのことを書いてあるという気持ちにさせられる。

 「糸みみず」も似たようなところがある。

糸みみずが目のなかに入ってきた
ぐにゅぐにゅぐにゅ
そんなに無理しちゃ痛いじゃないの
やめて 変な気持ちになるよ
あー 入っちゃった
目のなかを泳いでいる
糸みみずだと思っていたけれど
死んだ夫の「あれ」にちがいない

 このあと長嶋は夫の視線を取り入れながらことばを動かしていく。何かするたびに、夫が顔を出す。「うるさくてしかたがない」。そんな感じ。
 「糸みみず」がなんであるかは関係ないのだ。「糸みみず」を詩のなかに持ち込むことで、ことばを動きやすくしている。何を書きたかったのか。

無駄遣いばかりしてと「あれ」がいう
難癖つけられて買う気が失せる
家に帰ってテレビをみる いちいち講釈する
北千住駅前丸井食品売り場の見切り品を食べる
しみったれたものを食べているなといちゃもんをつける

 そうした生活があったこと、そんなふうに女と男の暮らしはつづくこと。それを書きたいのだと思う。「糸みみず」のかわりに「夫」そのままを出してもそういうことは書けるが、「糸みみず」の方が自由に書ける。
 「自由」を手に入れる方法が「ぶた」だったたり「糸みみず」だったりする。

 「あそび」というのは現実から離れるためであるけれど、離れて現実を見つめなおすことでもある。
 「あそび」のなかで長嶋はしっかりと現実をみつめている。現実に復讐している。この復讐の仕方は鮮やかだ。とても楽しい。



 ちょっと脱線しよう。長嶋の詩にあわせて(?)遊んでみよう。
 「糸みみずが目のなかに入ってきた」の「目」を「まなこ」と読んでみよう。ちょっと(かなり?)飛躍して「まなこ」を「ま●こ」と「誤読」してみよう。
 そうすると、長嶋の書いている世界がぐっと現実的(?)になる。誰もが知っていて、知っているけれど言えない(わけではないが)、言いたいことがらになる。「糸みみず」が何かの比喩に見えてくる。
 最終連。

目のなかに「あれ」が住みついている
つべこべいってもほっておく
節穴はやることがいっぱいあって忙しい
きょうは別の夫に会いにいく
目のなかの「あれ」が動きまわって
ぎゃあぎゃあ騒いでいる
ムクムク大きくなってはじける

 女は意地悪だなあ。意地悪な復讐をするものだなあ、と感心してしまう。
 男は、たとえば「目」を「まなこ」と読み替え、さらに「ま●こ」と頭の中で読み替えて遊ぶけれど、それはあくまで「頭」のなかの視力の遊び。女に笑われていることも知らずに、子どものまま「ぎゃあぎゃあ騒いでいる」だけなんだなあ。女は男が「ぎゃあぎゃあ騒いでいる」だけということを、いつでも知っているんだなあ。意地悪だなあ、と心底思う。思い知らされる。



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