小松弘愛「じゅこん」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
土佐弁をめぐる詩。「じゅこん」。「入魂な、親しい間柄の」という意味であるらしい。「昵懇」とも。
以前、小松の詩を取り上げたとき「てんぽうな」について、私は、土佐弁を無視して「誤読」を楽しんだ。「てんぽうな」は「高知方言辞典」には「無鉄砲な」と標準語訳されているようだけれど、私にはちょっと違う感じがして「天法な」と勝手に漢字をあて、「無邪気な」「天真爛漫な」と読みかえてみた。こころのどこかに「天衣無縫な」ということばもひっかかっていた。
今回の「じゅこん」についても、「誤読」をしたい。「じゅこん」そのものについてではなく、小松が「入魂」と「樹根」を比較している部分について、「誤読」してみたい。
「入魂」と「樹根」。「入魂」から「樹根」へ。
私にはここに小松の願いがこめられているような気がする。「入魂」が「樹根」のように、大地に根を張って生きて行けるように、という願いがこめられている気がするのだ。そう読みたいのだ。
実際の「樹根」は永遠には生きないが、広辞苑のなかではいつまでも生きて行く。一方、「じゅこん」の方は、広辞苑のなかでも、「いつまで生きてゆけるだろう」かわからない。時代とともにことばはかわり、辞書はとその変化を映し出すからである。
そう書きながら、小松は、辞書なんかは関係なく、「じゅこん」に生きてほしいと願っている。辞書の中ではなく、「樹根」が大地に生きるように、「じゅこん」が人間の生活のなかに生きてほしいと。
そのためには、「じゅこん」はつかわれつづけなければならない。
その具体的な使用例を小松は、小学校のときの女の先生の歌に見出し、こころを通わせている。歌の内容に共鳴してというより、「じゅこん」ということばをつかうという、そのことに対して、願いのような、祈りのような思いを通わせている。
「じゅこん」は挽歌であってはならない。追悼詩であってはならない。そうしたくない、という思いがこもった詩だ。「追悼詩となるかもしれない」は不安ではなく、そんなふうにはしたくないという熱い思いなのだ。
こんなふうに愛されることばは幸せだ。こんなふうにことばを愛したことがあるだろうか、と自分に問いかけてみて、不安になってしまう。小松のように、自分が聞いたことがあることばすべてを愛さなければならないのだ。詩人であるなら。
土佐弁をめぐる詩。「じゅこん」。「入魂な、親しい間柄の」という意味であるらしい。「昵懇」とも。
以前、小松の詩を取り上げたとき「てんぽうな」について、私は、土佐弁を無視して「誤読」を楽しんだ。「てんぽうな」は「高知方言辞典」には「無鉄砲な」と標準語訳されているようだけれど、私にはちょっと違う感じがして「天法な」と勝手に漢字をあて、「無邪気な」「天真爛漫な」と読みかえてみた。こころのどこかに「天衣無縫な」ということばもひっかかっていた。
今回の「じゅこん」についても、「誤読」をしたい。「じゅこん」そのものについてではなく、小松が「入魂」と「樹根」を比較している部分について、「誤読」してみたい。
「じゅこん」よ
お前は
わたしの手許にある
岩波書店の『国語辞典』になく
旺文社の『国語辞典』になく
三省堂の『新明解国語辞典』になく
小学館の『現代国語例解辞典』になく
ただ
引くのが億劫になるほど重い『広辞苑』には載っている
「樹根」と並んで
「じゅこん」よ
お前は
「樹根」と違って
この『広辞苑』でいつまで生きてゆけるだろ
池知先生の「じゅこん」のうた
あの
「じゅこんになった小父さんに」の一首は
ありし日の
お前の姿をとどめる挽歌になるかもしれず
わたしの
この 「じゅこん」一篇もまた
お前をしのぶ
追悼詩となるかもしれない。
「入魂」と「樹根」。「入魂」から「樹根」へ。
私にはここに小松の願いがこめられているような気がする。「入魂」が「樹根」のように、大地に根を張って生きて行けるように、という願いがこめられている気がするのだ。そう読みたいのだ。
実際の「樹根」は永遠には生きないが、広辞苑のなかではいつまでも生きて行く。一方、「じゅこん」の方は、広辞苑のなかでも、「いつまで生きてゆけるだろう」かわからない。時代とともにことばはかわり、辞書はとその変化を映し出すからである。
そう書きながら、小松は、辞書なんかは関係なく、「じゅこん」に生きてほしいと願っている。辞書の中ではなく、「樹根」が大地に生きるように、「じゅこん」が人間の生活のなかに生きてほしいと。
そのためには、「じゅこん」はつかわれつづけなければならない。
その具体的な使用例を小松は、小学校のときの女の先生の歌に見出し、こころを通わせている。歌の内容に共鳴してというより、「じゅこん」ということばをつかうという、そのことに対して、願いのような、祈りのような思いを通わせている。
「じゅこん」は挽歌であってはならない。追悼詩であってはならない。そうしたくない、という思いがこもった詩だ。「追悼詩となるかもしれない」は不安ではなく、そんなふうにはしたくないという熱い思いなのだ。
こんなふうに愛されることばは幸せだ。こんなふうにことばを愛したことがあるだろうか、と自分に問いかけてみて、不安になってしまう。小松のように、自分が聞いたことがあることばすべてを愛さなければならないのだ。詩人であるなら。