詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵「百舌(もず)」

2007-03-18 11:50:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 粒来哲蔵「百舌(もず)」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
                             
 百舌が来て妻を咥(くわ)えていった。私は妻の帯が解けかかっていたのを気にしていたが、百舌は山門近くの枳殼の棘に妻を突き刺したまま飛び去ってしまった。

 書き出しである。こんなことってある? ない。すると、これは何? 「百舌」は「百舌」ではないのかもしれない。何かの譬喩かもしれない……、と考えはじめると、粒来の詩はぜんぜんおもしろくない。あくまで、百舌は百舌である。
 しかし、不思議なことに、百舌だとどんなに意識しても百舌以外のものを思い浮かべてしまう。特に、次のような部分。

 百舌はひとを啜(すす)るというが、本当のようだ。赤子の場合は腹から啜り下肢にに向う。よく熟れた女の場合は、腹を啜るのも慎重だ。
 まず羽先で胸をかるくたたいて乳頭をもたげさせ、声を出したらつと局所に触れる。女が身悶えすると、百舌は頭を振り振り女の産道を逆にたどり、甘露をゆっくりと啜り込む。
 物知りによれば、この行為でかなりの数の雄百舌が、笑いながら溺死するという。

 どうです? 百舌を思い浮かべられます? 違うもの、説明しなくてもきっと私とあなたは同じものを思い浮かべていると確信を持っていえるものを想像していませんか?
 粒来のやっていることは、そういう意地悪(?)なのである。
 想像力なんて、みんな同じ。人間は、だれでも同じことしか考えられない。
 「乳頭」「局所」「産道」。そんなふうに、ちょっとずらしたことばを重ねてみても、実際に読者が想像しているものは「乳頭」局所」「産道」とは普通は呼ばないものである。もっと違ったことばで呼ぶものを想像してしまう。そして、その想像したものは、たとえ読者が 100人だろうが1000人だろうが、きっと同じものである。ひとによってもしかすると、その呼び方は違うかもしれないが、肉体の部位としては同じものである。
 
 人間はことばで考える。だが、ことばの本質は名詞ではない。名前(呼び方)が違っても、そういう呼び方とは関係なしに、私たちはことばの運動全体が描き出すものを優先して追いかけ、「あれは、乳頭と呼ばれていたが、あれのことだ」「局所、産道なんて、へんに冷たい呼び方をしているが、あれのことだ」と、粒来の書いたことばを自分流にねじまげている。
 ことばを(特に他人のことばを)ねじまげて解釈する--そこに人間の想像力のとてもおもしろい部分がある。

 想像力を定義して、事実をねじまげる力、といったのはバシュラールだが、私たちはなんでもねじまげて自己流に解釈する。そして、自己流にねじまげることによって、それでは間違えるかといえば、まったくそういうことはない。ねじまげることで、「正解」(?)を手に入れる。「乳頭」「局所」「産道」というようなことばをそのままねじまげずに正しく受け止めたりする読者がいたら、それこそ「誤読」というものだろう。

 そして、そう考えると、また変なところへ出てしまう。
 では、「百舌」は? それは、粒来が、事実をどんなふうにねじまげた結果「百舌」になったのか?
 こういうわからない答えを私は求めない。なんだっていい、と思う。

 粒来は、想像力がどんなふうに動くか、それだけを描きたくて「百舌」という作品を書いた。(この作品だけではなく、すべての作品が同じ動機で書かれていると私は思うが。)
 想像力によってねじまげたことば--。ことばはねじまげられているけれど、想像力はねじまげられない。いつも「正解」を知っている。「正解」が確実に存在するからこそ、平気でことばをねじまげる。ことばをどこまでねじまげることができるかを楽しむ。

 しかし、こういう遊びができるのは、「文体」が確立されているからである。「文体」が「日本語の歴史」で鍛えられているからである。何を省略し、何を書くか、ということばの選択、ことばの間合いを見極める力があるからだ。

 粒来のことばを読んでいると、「文体」とはことばの間合いだということがよくわかる。「意味」ではなく、「間合い」、そこにただよう「空気」が、とてもリアルだ。「間合い」「空気」は、そして実は「人間」そのもののことでもある。手にとって掴めないものではなく、逆に手にとってつかめるために、取り逃がしてしまう何かだ。肉体をつかませることで、そこにたしかにその人がいるということを感じさせて、逆に、こころをはぐらかしてしまうような呼吸--そういう、私たちが日常で感じるものが「文体」そのものである。
 次の、禅問答のような部分。

 大輪のか?と私が訊いたら、いや野菊の仲間だ、といった。では野菊は何処から来るのか--と重ねて訊ねたら、迷いからさ--と笑いやがった。

 常に私たちが出会っている「間合い」「呼吸」によって鍛えられた文体。それを粒来は常に描いている。比喩でも意味でも寓話でもない。「間合い」「呼吸」が粒来の「文体」であり、「詩」だ。

 最初の引用にもどれば、「乳頭」「局所」「産道」ということばの「間合い」、その日常的にはつかわないことばとことばの「距離」、そのあいだに広がる「空気」、それが粒来の「文体」であり、「詩」であり、「思想」だ。

コメント
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