入沢康夫「かはづ鳴く池の方へ」再読(「現代詩手帖」2007年03月号)。
この作品のおもしろさは「誤読」と「正解」(?)入り乱れるとである。そして、そこに作者と読者の関係が交錯することである。「誤読」と「正解」について、さまざまなことを考えさせてくれる。
「蛙なくかり田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音」を「蛙の声がうるさいので黙れと言ったら蛙は鳴かなくなった。そばにある松の木も静まれと言ったら葉ずれの音をたてなくなった」と解釈することは「誤読」である。だが、それが「誤読」であると定義するとき、「誤読」を支えていた人々(読者)の心情が失われてしまう。
これは作品にとっていいことなのだろうか。
作者と読者の違いはどこにあるか。
作者は、まだことばにならないことがらをことばにする人間のことである。まだことばになっていないこころの動きをことばにすることでくっきり見えるようにする人間のことである。
一方、読者というのは、そこに書かれていることばを読むことで、あ、自分が感じたかったのはこういうことなのだ、と発見するものだ。作者が書いたことばに触れ、これこそが自分のいいたかったこと、自分が感じていたことだと思い込む人間のことである。
そしてというべきか、したがってというべきか……。読者というのは(私も含めて--と強引に、ここで書いておこう)、「誤読」したがる存在である。目の前にあることばを手がかりに自分の思いを確かめたい人間である。
このとき読者は、実は、作者がほんとうはどういいたかったかなどということは気にしない。そんなこととは関係なしに、そこにあることばが自分を代弁してくれればそれでいいと考える。自分の都合にあわせて、作者がことばに託した思いを改変する。つまり、誤読する。
文学作品にかぎらず、あらゆることばに対して、人間は「誤読」する権利を持っている。「誤読」によって、自分の考えを強引に説明する。たとえば「情けはひとのためならず」。本来の意味は情けというものはひとのためにするものではない。それはまわりめぐって自分に帰って来る。情けをかけることは結局自分が助けられることである。しかし、これが、情けをかけることは相手のためにはならない、と「誤読」され、それが大手を振るって流通するようになる。こうした「誤読」の背景には、一種の人間関係の苦々しさがある。そのことばが生まれたときは存在しなかった人間関係の変化があるのだろう。昔は、情けが巡り巡ってくるのを悠長に待っていた。しかし現代はそういうのんびりした人間関係を待ちきれない。すぐに成果を求めてしまう。そういう事情があって、情けをかけてもその人のためにならない、単に甘やかすだけだ、それは結局その人をだめにする--というような心情を生んでしまうのだろう。そこには自分こそが良い目を味わいたいというせっかちな欲望もあるかもしれない。読者はいつでも自分の思いを代弁してくれることばを探している。それが「誤読」とよばれようが関係ない。「誤読」をとおして、自分のことばが補強されたように感じるのだ。「だって、ことわざにあるじゃない? 自分だけのかんがかではなく、これは誰もが感じることなのだ」。読者とは自分の感じていることを、だれかのことばをとおして確認し、同時に、これは自分一人の考えではなく、だれそれも考えていることなのだと安心したいのである。
そこには深い深い「心情」が隠されている。「正解」のようにすっきりしたものではない何か、ねじくれて、ことばにできないような思いが隠されている。「誤読」こそが人々の感じている「正解」なのであり、作者の意図など作者の意図にすぎない。それは読者の「心情」を「誤読」したまま書かれているのである。
私の書いていることは、たぶん奇妙なことなのだ。奇妙を承知で書くのだが、文学の歴史とは「誤読」の歴史なのである。「ドン・キホーテ」は騎士物語を「誤読」し、その「誤読」の視点のまま現実と向き合った男の話だが、その「誤読」のなかには「心情」がある。そして「心情」というのは、誰がなんといおうと、一度も間違いを犯さないもの、絶対的な真実なのである。
「心情」はなにも間違えない。絶対的に正しい。しかし、その「心情」を絶対的な正確さであらわすことばを人間は持っていない。正確に言おうとしても、正確に書こうとしても、どうしても間違ってしまう。ことばは「心情」と違って全体を一気に把握できない。ひとつひとつのことばを現実の存在と向き合わせなければならない。とらえきれないものがどうしても出てきてしまう。そこに「誤読」の入り込む余地があり、「誤読」が世界を複雑にする。それは笑いも引き起こせば悲しみも引き起こす。つまり世界を豊かにする。「誤読」が文学を豊かにしているのである。
後鳥羽院の歌は、野津がどんなに「正解」を書こうが、そして入沢がどんなに野津の説が正しいと支持しようが、野津が「誤読」と指摘している「心情」の方が読者を強烈にとらえてはなさない。繰り返し繰り返し人間が「誤読」の歴史を書き留めたのは、そう「誤読」することの方が、人間にとっては好きだったからである。
ひとはいつでも好き嫌いで行動する。好きな方を選んでしまう。
「誤読」ということばに励まされるようにして、入沢は「パート三」を書いているように私には思える。(そう「誤読」したいのだ、私は。)
さらには入沢は、この「誤読」の伝承を「草仮名連綿体」(崩し字)の「誤読」にまで押し広げているが、この部分が、さらにおもしろい。
ここでの「誤読」には意識とともに肉眼も関与している。意味の「誤読」にとどまらず文字の誤読も関与している。しかも、それは入沢の想像である。「パート二」であれだけ綿密にテキストを引用していた入沢が、ここでは「書写」を見ていない。想像で文字の「誤読」を取り上げている。
ここがこの作品の白眉だと私は思う。
入沢の想像は「誤読」ではなく、「正しい推測」かもしれない。しかし、それが「正しい推測」であったとしても、私は「誤読」だと判断する。実際に「書写」をみて判断するならともかく、入沢はそれを見ないで判断している。(ほんとうは見たかもしれないが、見なかったことにして推測している)。これは、入沢がそう読みたかったからそう読んだという証拠である。
そう読みたいというのが入沢の「心情」なのである。
作者の思いは関係がない。読者の「心情」にしたがってテキストが読まれるとき、それは「誤読」の危険性を孕んでおり、危険を孕んだ段階で、すでに「誤読」なのである。
誰がなんといおうと「誤読」へ突き進む。突っ走る。
この瞬間の輝かしさ。精神の輝き。
ああ、入沢は若々しい。美しい。
この「誤読」を正しいと補強するために、入沢は「夕すずみ」の例を探し出している。「事実」を積み上げることで「誤読」ではなく「正しい推測」だと主張している。それは確かに「事実」だろうけれど、「心情」が選びとった「事実」である。
ここにあるのは「心情」だけである。「夕すずみ」と読み替えることで後鳥羽院の歌をわかりやすい形で納得したいという入沢の「心情」だけである。
くっきりと浮かび上がる「心情」--それは、やっぱり「詩」そのものなのだ。
この作品のおもしろさは「誤読」と「正解」(?)入り乱れるとである。そして、そこに作者と読者の関係が交錯することである。「誤読」と「正解」について、さまざまなことを考えさせてくれる。
「蛙なくかり田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音」を「蛙の声がうるさいので黙れと言ったら蛙は鳴かなくなった。そばにある松の木も静まれと言ったら葉ずれの音をたてなくなった」と解釈することは「誤読」である。だが、それが「誤読」であると定義するとき、「誤読」を支えていた人々(読者)の心情が失われてしまう。
これは作品にとっていいことなのだろうか。
作者と読者の違いはどこにあるか。
作者は、まだことばにならないことがらをことばにする人間のことである。まだことばになっていないこころの動きをことばにすることでくっきり見えるようにする人間のことである。
一方、読者というのは、そこに書かれていることばを読むことで、あ、自分が感じたかったのはこういうことなのだ、と発見するものだ。作者が書いたことばに触れ、これこそが自分のいいたかったこと、自分が感じていたことだと思い込む人間のことである。
そしてというべきか、したがってというべきか……。読者というのは(私も含めて--と強引に、ここで書いておこう)、「誤読」したがる存在である。目の前にあることばを手がかりに自分の思いを確かめたい人間である。
このとき読者は、実は、作者がほんとうはどういいたかったかなどということは気にしない。そんなこととは関係なしに、そこにあることばが自分を代弁してくれればそれでいいと考える。自分の都合にあわせて、作者がことばに託した思いを改変する。つまり、誤読する。
文学作品にかぎらず、あらゆることばに対して、人間は「誤読」する権利を持っている。「誤読」によって、自分の考えを強引に説明する。たとえば「情けはひとのためならず」。本来の意味は情けというものはひとのためにするものではない。それはまわりめぐって自分に帰って来る。情けをかけることは結局自分が助けられることである。しかし、これが、情けをかけることは相手のためにはならない、と「誤読」され、それが大手を振るって流通するようになる。こうした「誤読」の背景には、一種の人間関係の苦々しさがある。そのことばが生まれたときは存在しなかった人間関係の変化があるのだろう。昔は、情けが巡り巡ってくるのを悠長に待っていた。しかし現代はそういうのんびりした人間関係を待ちきれない。すぐに成果を求めてしまう。そういう事情があって、情けをかけてもその人のためにならない、単に甘やかすだけだ、それは結局その人をだめにする--というような心情を生んでしまうのだろう。そこには自分こそが良い目を味わいたいというせっかちな欲望もあるかもしれない。読者はいつでも自分の思いを代弁してくれることばを探している。それが「誤読」とよばれようが関係ない。「誤読」をとおして、自分のことばが補強されたように感じるのだ。「だって、ことわざにあるじゃない? 自分だけのかんがかではなく、これは誰もが感じることなのだ」。読者とは自分の感じていることを、だれかのことばをとおして確認し、同時に、これは自分一人の考えではなく、だれそれも考えていることなのだと安心したいのである。
そこには深い深い「心情」が隠されている。「正解」のようにすっきりしたものではない何か、ねじくれて、ことばにできないような思いが隠されている。「誤読」こそが人々の感じている「正解」なのであり、作者の意図など作者の意図にすぎない。それは読者の「心情」を「誤読」したまま書かれているのである。
私の書いていることは、たぶん奇妙なことなのだ。奇妙を承知で書くのだが、文学の歴史とは「誤読」の歴史なのである。「ドン・キホーテ」は騎士物語を「誤読」し、その「誤読」の視点のまま現実と向き合った男の話だが、その「誤読」のなかには「心情」がある。そして「心情」というのは、誰がなんといおうと、一度も間違いを犯さないもの、絶対的な真実なのである。
「心情」はなにも間違えない。絶対的に正しい。しかし、その「心情」を絶対的な正確さであらわすことばを人間は持っていない。正確に言おうとしても、正確に書こうとしても、どうしても間違ってしまう。ことばは「心情」と違って全体を一気に把握できない。ひとつひとつのことばを現実の存在と向き合わせなければならない。とらえきれないものがどうしても出てきてしまう。そこに「誤読」の入り込む余地があり、「誤読」が世界を複雑にする。それは笑いも引き起こせば悲しみも引き起こす。つまり世界を豊かにする。「誤読」が文学を豊かにしているのである。
後鳥羽院の歌は、野津がどんなに「正解」を書こうが、そして入沢がどんなに野津の説が正しいと支持しようが、野津が「誤読」と指摘している「心情」の方が読者を強烈にとらえてはなさない。繰り返し繰り返し人間が「誤読」の歴史を書き留めたのは、そう「誤読」することの方が、人間にとっては好きだったからである。
ひとはいつでも好き嫌いで行動する。好きな方を選んでしまう。
「誤読」ということばに励まされるようにして、入沢は「パート三」を書いているように私には思える。(そう「誤読」したいのだ、私は。)
思ひあまつて次のやうに「妄想」をつむぎだす
ひよつとしたら後鳥羽院の「夕たたみ」は
かなり初期段階から
「ゆふすすみ(夕涼み)」を
かう誤つて伝承して来たのではない
(谷内注「夕たたみ」「ゆふすすみ」の二文字目の「た」「す」は原文は送り文字)
さらには入沢は、この「誤読」の伝承を「草仮名連綿体」(崩し字)の「誤読」にまで押し広げているが、この部分が、さらにおもしろい。
元の「ゆふすすみ」が 奔放な もしくは逆に稚拙な
草草仮名連綿体で書かれてゐた場合
それを筆写した人
(「隠州視聴合記」の著者
あるいはもつともつと古い書写者)が
「す」(数、敷あるいは須を母字とする崩し字)を
「た」と読み違へ
それが数百年に亙つて伝世されたといふ可能性は
考へられないのもだらうか?
(谷内注、「亙つて」は原文は「亘って」。誤植だろうと判断し「亙つて」とした。「ゆふすすみ」の2文字目の「す」は送り文字)
ここでの「誤読」には意識とともに肉眼も関与している。意味の「誤読」にとどまらず文字の誤読も関与している。しかも、それは入沢の想像である。「パート二」であれだけ綿密にテキストを引用していた入沢が、ここでは「書写」を見ていない。想像で文字の「誤読」を取り上げている。
ここがこの作品の白眉だと私は思う。
入沢の想像は「誤読」ではなく、「正しい推測」かもしれない。しかし、それが「正しい推測」であったとしても、私は「誤読」だと判断する。実際に「書写」をみて判断するならともかく、入沢はそれを見ないで判断している。(ほんとうは見たかもしれないが、見なかったことにして推測している)。これは、入沢がそう読みたかったからそう読んだという証拠である。
そう読みたいというのが入沢の「心情」なのである。
作者の思いは関係がない。読者の「心情」にしたがってテキストが読まれるとき、それは「誤読」の危険性を孕んでおり、危険を孕んだ段階で、すでに「誤読」なのである。
誰がなんといおうと「誤読」へ突き進む。突っ走る。
この瞬間の輝かしさ。精神の輝き。
ああ、入沢は若々しい。美しい。
この「誤読」を正しいと補強するために、入沢は「夕すずみ」の例を探し出している。「事実」を積み上げることで「誤読」ではなく「正しい推測」だと主張している。それは確かに「事実」だろうけれど、「心情」が選びとった「事実」である。
ここにあるのは「心情」だけである。「夕すずみ」と読み替えることで後鳥羽院の歌をわかりやすい形で納得したいという入沢の「心情」だけである。
くっきりと浮かび上がる「心情」--それは、やっぱり「詩」そのものなのだ。