詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本まこと『鏡と眼差し』

2007-03-10 23:17:21 | 詩集
 山本まこと『鏡と眼差し』(私家版、2007年02月20日発行)。

未決囚ほどにも本が読めない
それで成算もなく
うつくしい麦!
と言ってみる

 「夏のはじまり」の冒頭。この「言ってみる」が山本の「詩」である。「言ってみる」。そして、ことばがどれだけ動くか、意識がどれだけ動くか、それを追いかける。

散乱するひかりは
さらに塩のようなものをひからせ
空のうつろはしたたって
おやあ、なんだか
匂いたつ、欠如?
いや
それは何とも言えないのだけれど

 停滞し、疑問を抱え、推測し、そうした動きをすべてことばにし、否定する。その否定に「それは何とも言えないのだけれど」と、もう一度「言う」が登場する。
 ことばで考える--これは当然のことなのかもしれないが、山本ことばで考える。
 そして、山本はことばで考えることに、ちょっと馴れすぎている。書き出しからそうなのだが、ことばで考えることに馴れすぎていて、そこに「流通している言語」(すでに流通の期間が過ぎてしまっている、賞味期限の切れている)ことばが混じりこむ。「流通している言語」だから、とてもわかりやすい。わかりやすいかわりに、詩が「現代詩」になってしまう。
 1行目の「未決囚」のことである。「未決囚」って、一番最近新聞を賑わしたのは誰? 彼(彼女)は山本と、どういう関係がある? 山本は、たぶん、私のこういう質問を想定せずにことばを書いているだろう。
 「未決囚」から「うつくしい麦!」への飛躍にしても同じだろう。「未決囚」と「麦」の関係は? 「初夏」を「夏のはじまり」と言えば言えるだろうけれど、麦の実る初夏を「夏のはじまり」と、ほんとうに麦の生産者(農家のひとたち)は思うかな?
 「流通している言語」の「流通」にしたがって、ことばはどこにもぶつからずに動いていく。「停滞」さえも予定調和のなかにある。

蛍光灯にうかびあがる非人称のガレージで
睦み合い殺し合った半眼の誠実は裂けたまま
遅滞したことばの疼き
私よ、私を甘受せよ

 過ぎ去った「流通言語」、その文法が今も山本のなかで生きていることがよくわかる。

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エミリオ・エステベス監督「ボビー」

2007-03-10 00:00:11 | 映画
監督 エミリオ・エステベス 出演 アンソニー・ホプキンス、シャロン・ストーン、デミー・ムーア

 いろいろなエピソードがからみあう群像劇。からみあいながら1968年を描き出す。出色は、なんといってもケネディーの演説である。この映画はケネディーの演説をもう一度思い出すためにつくられている。
 自分たちをみつめよう。自分にできること、将来へ向けてしなければいけないことをきちんと判断しよう。そのシンプルで力強い演説が、登場する人々のありようと密接にシンクロする。
 登場する人物のそれぞれが「現在」の問題を抱えている。そして、自分一人ではもちきれないでいる。なんとか自分にできることはないかと探しまわっている。今、ここにある現実の「壁」と、自分のいのちをどうつきあわせればいいのか、苦悩している。その苦悩にひとつの方向性を与え、希望を与えようとするケネディーの演説。ことばが、まだそうした夢を担っていた時代が浮かび上がる。
 この映画は映画である。しかし、その映画が伝えようとしているのは、映像でも音楽でもない。ことばである。人間はことばで行動する。人間に希望を与えるのはことばなのである。
 たとえばホテルの厨房のチーフ(アフリカン・アメリカン)がスタッフ(ラティノ・アメリカン)に贈る円卓の騎士をたたえることば。ことばを頼りに、人は自分の行動を制御し、自分の行動に責任を持つ。
 ことばを放棄したとき、ことばが孤立したとき、そこでは「暴力」が暴れ回る。
 「暴力」に対して、ことばはどのように復権できるだろうか。ケネディーが暗殺された厨房、その混乱、苦悩と悲しみ。それを背景に、ケネディーの演説が覆いかぶされるとき、その瞬間、この映画は1986年を描きながら、1986年を超えて、現代に響いてくる。
 ことばをどうやって取り戻すか。

 この映画がとても不思議なのは、ケネディーの演説が流れた瞬間、ことばは自分の現実のなかで取り戻すしかないということが、フラッシュバックのように襲ってくることである。群像劇。その登場人物たちはいがみあい、いがみあうことで傷つき、悲しみ、どうしていいかわからなくなっている。そのうちの何人かが凶弾の巻き添えで傷つく。そのとき、人はどうするか。傷つけあってきたことを忘れ、ひ弱な人間に戻って、彼(彼女)にできることをする。自分自身を守ることを忘れ、今そこで傷ついている人を守ろうとする。たとえば出血する腹部に自分の手を重ねる「がんばって」と励ます。たとえば倒れ人を抱きながら「ヘルプ」と叫ぶ。いがみあっていたことを忘れ、そこにある不幸に対して、自分のできる行動をする。声をかける。そこから、ことばは生まれる。群像劇のひとりひとりが、過去の苦悩、怒り、悲しみを超えて、今、ここで引き起こされた暴力に対して立ち上がっている。そこからことばが生まれようとしている。彼らの「がんばれ」あるいは「だれか助けて」「医者を呼んで」という声の積み重ね、それがケネディーのことばの源であることが、最後の最後の瞬間にわかる。群像劇。ばらばらな人間の苦悩が群像劇として描かれなければならなかった理由はそこにある。どんなどらばらなものであっても、暴力の惨劇の前では、互いに寄り添い、ことばを見つけ出す瞬間がある。そのことを伝えるために、群像劇は描かれなければならなかったのである。

 美しい--ということばは最適ではないだろうと思うけれど、この、ことばを浮かび上がらせる瞬間の力強さは美しい。思わず引き込まれ、入り乱れる声に、肉体が揺さぶられる。ばらばらの群像劇であっただけに、それを「がんばれ「助けて」という最初の声にする力が「愛」なのだ浮かび上がらせる瞬間--その瞬間が歴史の悲劇であるにもかかわらず、美しいと感じる。
 エミリオ・エステベスはとてもすばらしい仕事をした。とてもすばらしい作品を作り上げた。映画館へ駆けつけ、脱帽すべき作品である。


コメント (4)
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