詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「這い這い」

2007-03-20 15:03:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 倉橋健一「這い這い」(「火牛」58、2007年03月05日発行)。
 
朝早く行方をくらませたひとりの赤ちゃんがこの地域にまぎれ
 こんだかもしれないと噂があって
夜半ぼくらは集会所にあつまった
誘拐、略取、置き去て……、ありとあらゆるケースを想定した
 が
事件に巻きこまれた形跡がないことから
家出人にした、とお巡りさんが説明した
それにしても
やっと這い這いをはじめたばかりの赤ちゃんが
どうして家出などしたのだろう
どうせお腹もぺこぺこだろうから
おいしいものをあちこちに仕掛けて誘(おび)き出そう
などと意見が出て
なによりも赤ちゃんを怯えさせないためには
われらも図体を小さくして目線を低くしなければ、の配慮から
全員四つ這いで行動することも決定した

 「それにしても」。
 この1行に私は引き込まれた。
 なぜだろうか。
 「それにしても」の「それ」が省略されているからだ。「それにしても」というかぎりは、それに先立つ「それ」が語られなければならない。「それ」が、ああでもなければ、こうでもない、と議論(?)が煮詰まって、その後ようやく「それにしても」という声が出るはずである。
 ところが、ここでは肝心の「それ」(それら)が省略されている。
 省略することで、倉橋のことばはスピードを上げる。速くなる。その速さにのせられて、一気に読んでしまう。何が書いてあった? そんなことは私は覚えてはいない。
 私が一読して覚えていたのは、「赤ちゃん」ということばをのぞけば、空で思いだせたのは「それにしても」だけであった。
 そして、この作品のことばは「それにしても」の「それ」を省略することで、どんどん軽くなる。事実(?)を無視して、想像力が勝手に走り回る。
 「どうせ」ということばも出てくるが、これも「それ」を無視しているから出てくることばである。「それ」のなかに含まれているはずの本物の「赤ちゃん」が無視されているからである。ほんとうに「赤ちゃん」を気にしていたら「どうせ」ということばなど出てこない。
 この詩は「赤ちゃん」を気にする「形」を利用して、人間の想像力が(ことばが)、どれくらい加速するかを描いている。
 「想定」「説明」「配慮」「決定」。
 そんなことばをつかって、私たちは、自由気ままに、ことばを動かすことができる。
 「詩」は、ことばの暴走なのだ。
 現実、事実をどこまでゆがめて書くことができるか。--この実験には、ゆがめて書かれた事実(?)は問題とはならない。事実はゆがむけれども、ことばは絶対にゆがまない。そういうことを確かめる実験である。
 「家出した赤ちゃん」ということばは事実をゆがめている。そういう事実はありえない。そういう事実でないことを書いても、ことばは傷つかない。そうした力がことばにはある。ただし、そうしたことばは、頭の固いひとたちからは嫌われるかもしれない。でたらめを書くな、と。
 そういう「でたらめ」に触れながらも、でたらめと無縁なことばが、やはりあって、それが「それにしても」である。論理を新たに出発させることば。論理に新たな視点をつけくわえることば。「でたらめ」(ありえないこと)を書きながらも、ひとはどうしても、本当のことを書いてしまう。
 「それにしても」が、その本当のことに当たる。
 本当のことを抜きにしては、どんなでたらめ、空想も書くことはできない。
 「それにしても」ということばを6行目で書かなかったら、この詩は先へ進まなかったはずである。(もちろん、書き上げたあとに別のことばに差し替えることは可能である。しかし、そういう操作は「技法」の問題である。)

 本当のことというのは不思議な力を持っている。「それにしても」が本物だから、「どうせ」も本物になる。「どうせ」がひんしゅく(?)をかわないとすれば、それは「それにしても」という逸脱を「どうせ」を聞いたひとがすでに受け入れているからである。「それにしても」を受け入れることができないひとは「どうせ」も受け入れることができない。
 「それにしても」は短いことばだが、この作品の中では、もっとも重要なことばである。だからこそ1行として独立している。(1行仕立てにしたのは、倉橋が意識的にしたことか、無意識的にしたことか、判断しようがないが、たぶん無意識だろう。そして、それが無意識であるからこそ、そこに思想=詩人の本質があるとも言える。)

 「それにしても」は実は、この作品では引用しなかった後半にもう一度出てくる。
 そこでも、「それにしても」をきっかけに、ことばは加速する。
 「それにしても」はたしかに、こういう使い方をする。
 こういう本物があってはじめて、最後の方の「たまらなくなって」「じれるな」という感情を「なま」のままあらわすことばも輝く。
 とてもおもしろい詩だ。

コメント
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