詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ニコラス・ギエン「大いなる喪のギター」

2007-03-27 14:12:20 | 詩(雑誌・同人誌)
 ニコラス・ギエン「大いなる喪のギター」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年04月号)。
 チェ・ゲバラに捧げられた詩。音楽にあわせて歌うようにつくられた「大いなる喪のギター」がとてもおもしろい。

 Ⅰ

ボリビアの小さな兵士
おおボリビアの小兵士
銃をかついで行く、その
銃はアメリカ製、その
銃はアメリカ製、小さな
ボリビアの兵士、その
銃はノース・アメリカン。

 1連目だけで引き込まれる。ボリビア、小さな兵士、銃、アメリカ製、ノース・アメリカン。繰り返されることばが、繰り返しによって「物語」を暗示させる。繰り返されるのは、そこで語られたものを忘れてはならないからだ。
 「小さな兵士」「小兵士」。原語では「兵士+小さい」「兵士+縮小辞」で書かれているのだろうか。繰り返しのなかにある、その微妙な変化も、詩人のチェ・ゲバラへの愛情を感じさせる。それを日本語に訳出するときの感情移入というのだろうか、変化が絶妙に美しい。
 書き出しの2行で、私は、この詩に引き込まれてしまったが、ギエンの詩に惹かれたのか恒川の日本語に惹かれたのか、ちょっと区別がつかない。恒川がギエンそのものになりきっている。
 「さび」の部分もすばらしい。

 Ⅴ

わたしのギターは深い喪に
おおボリビアの小兵士、
沈んでいるが、泣いてはいない、
たとえ泣いたほうが自然でも、
たとえ泣いたほうが自然でも、
ボリビアの小さな兵士、
たとえ泣いたほうが自然でも。

 繰り返しが、悲しみを怒りに、怒りを力にかえてゆく。それを後ろからぐいぐいとおして行くようなリズムだ。

 Ⅵ

ギターは泣かない、なぜならば、
おおボリビアの小兵士、
いまはハンカチや涙のときではない
山刀(マチェーテ)をふるうときだから、
山刀をふるうときだから、
ボリビアの小さな兵士
山刀をふるうときだから。

 恒川の詩を読むといつも原語で詩を読みたくなる。

コメント
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