詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM。」

2007-03-05 23:18:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 田中宏輔「THE GATES OF DELIRIUM。」(「分裂機械」18、2007年02月20日)。
 田中宏輔は「二つ」にとりつかれた詩人だろうか。「THE GATES OF DELIRIUM。」。 隠しても隠しても「二」が浮かび上がってくる。「二」が何かを隠そうとして、強暴に動く。そして、そのことが、奇妙な言い方だが「一」を思い起こさせる。
 田中宏輔は「二つ」にとりつかれた詩人だろうか--と書いたが、ほんとうは、田中宏輔は「一つ」にとりつかれた詩人だろうか、と書くべきだったかもしれないという思いが、どこからともなく浮かび上がってくる。
 とりあえず「二」から読み進めてみる。最初に出てくる「二」は……。

ぼくの部屋から、その公園に行くには二通りの行き方があった。

 この「二」が、まるで暴力的な力で浮かび上がってくるのは、それに先立って「二」を隠した文章があるからだ。

葵公園は、賀茂川と高野川が合流して鴨川になるところに、その河原の河川敷から細い道路を一つ挟んであった。

 「賀茂川」と「高野川」。それは「二」である。その「二」は隠されている。「合流して鴨川」という「一」になる。この「一」も隠されている。隠されたその「一」を引き継いで「細い道路を一つ挟んで」という文が立ちあがってくるとき「二」は完全に封印されていると言える。
 ところが、「二」を隠し通すことはできない。「二」が自己主張するというよりも、「二」についてこそ田中は語りたいのだろう。なぜ「二」ということばをつかいたいのか、ということをこそ田中は語りたいのだろう。
 そのことは、いま引用した二つの文章を含む1連目を読むだけでも明らかである。葵公園へ行く--そのことが目的ならば、そこへ行く行き方が「一つ」か「二つ」かは問題ではない。田中にとって問題なのは「行き方」なのである。
 そして、これは矛盾したいい方になるかもしれないが(矛盾しているからこそ、そこに詩がある、と私は考えるのだが)、ここで田中が「二通りの行き方」とわざわざことばにしているのは、実は、「行く」という行為が一つであるということを隠すためなのである。
 「二」ということばをつかうのは、ほんとうは「一つ」であるとういことを察知してほしいと願っているからこそなのだ。「一」を知ってほしいから「二」を暴れさせるのである。
 あるいは、こういうべきなのか。
 「二」について語る。だが、知ってほしいのは「二」ではなく、「一」である。「一」を読者に発見してほしいと田中は願っている、と。

 川下から川上へか、川上から川下へか。その「二つ」は表面上の「行き方」にすぎない。行くという行為は「一つ」である。行く。行くために歩く。人を探しながら歩く。人を求めていることを隠し、隠すことを見せながら歩く。(ここにも、一種の「矛盾」がある。--「矛盾」によって、田中自身の在り方が幅広いものになっている。)人を探すこころを、川の景色に溶け込ませながら歩く。これは「行き方」というより、「歩き方」と言い換えた方がいいかもしれない。「歩き方」が一つであるからこそ、田中はわざと「行き方」は「二通り」であると「二」を強調する。「歩き方」ということば、その行為をも隠すのである。
 「二」を語っているが、ほんとうは「一」。それを発見してほしい。「一」を発見して近付いてきてほしい、と田中は強く願っているのだろう。「行き方」ではなく「歩き方」を知ってもらいたいのだ。
 たがらこそ、2段落目以降は、「行き方」ではなく「歩き方」を丁寧に描いている。

 「二」の強調は、たとえば次の部分。同時に「二」を強調することで「一」を発見してほしいと願っているのは、次の部分。

川辺の風景が、流れる水の上に映っている。流れる川の水の上の風景の方が実在で、川辺の風景の方が幻かもしれなかった。

 「川辺の風景」と「水の上の風景」。「水の上の風景」と「川辺の風景」。実在と幻。田中は、「二つ」を前面に出す。
 だが、この「二つ」は奇妙である。
 川辺の風景も、水の上に映った風景も、ともに現実である。ともに現実であるけれど、それを田中は「実在」と「幻」の「二つ」に分離したいのである。
 なぜ分離したいのかといえば、どちらが実在であり、どちらが幻かと考える存在(田中自身のことである)が「一つ」であるということを明確にするためである。同時に、どちらが実在であり、どちらが幻であろうと、それは田中にとって一方が不確かで他方が確実な存在であるということではなく、どちらも田中にとっては確かな存在である、ということを強調したいからである。
 葵公園への行き方が「二通り」あったように、「現実」の見方は「二通り」ある。川辺の風景を実在と見、水面の風景を幻と見る見方。それとは逆に川辺の風景を幻、水面の風景を実在と見る見方。それに優劣はない。どちらも田中の「魂」にとっては同じである。(田中は「魂」ということばをつかっている。)同じように、田中にとっては確かな「出来事」なのだ。--公園へ行く行き方が「二通り」あったとしても、公園へ行くという「出来事」が「一つ」であるように。

 「二」を書きながら「一」を強調する。「一」を強調するために「二」という「幻」で「一」を隠して見せる。
 田中がこの作品でやろうとしていことはたいへん興味深いことがらである。
 残念なのは、「一=孤独」というセンチメンタルを書くことで、「二」を表に出し続けることができなくなったことである。詩の最後は「一」が続々出てくる。「一つの太陽」「一人の人間、一つの事物、一つの言葉」「一つの深淵」「一つの偶然」。
 この「一」の羅列は、しかし、センチメンタルで片付けては行けないのかもしれない。田中は田中以外の「一つ」(つまり、そのとき田中と他者という「二」が現実として存在するのだが)と刺し違え、彼自身の「一」も他者の「一」も、ともに消滅させてしまいたいと願っているのかもしれない。田中自身の「一」をそんなふうに消滅させたとき、田中は「自己」という枠から解き放たれ、ほんとうの「一」、つまり「宇宙」になることができる(「宇宙」を生み出す詩人になれる)と切実に願っているのかもしれない。


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