詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木安美「送電線が山を越えている」「芽生え」

2007-03-24 10:51:28 | 詩(雑誌・同人誌)
 佐々木安美「送電線が山を越えている」「芽生え」(「一個」創刊号、2007年春)。
 「ヒトもモノも混ざり合っている」。この感じは、「送電線が山を越えている」「芽生え」でも共通している。

ときおり、わたしたちはひとつの夢で繋がり、離れているときもたがいの存在を感じあっていた。母は大きな犬を連れて霧の中を歩いている。声にならない息のやりとりが、ここまで伝わってくる。(「送電線が山を越えている」)

 「わたしたちはひとつの夢で繋がり」というときの「わたしたち」。「わたし」と「母」。「母」と「犬」。「犬」と「わたし」。その区別がつかない。「わたし」と「母と犬」かもしれない。「わたしと母」と「犬」も考えることができる。「わたしと犬」と「母」という関係もあってもいいだろう。
 混ざっているものを感じる。混ざり合うという関係、それを受け入れるという力があるからこそ、そこにはあらたに風景が加わるということも自然ななりゆきである。

ときおりふたりのたましいは、夢ではなく別のもので繋がり、離れているときもたがいの痛みを感じあっている。母は大きな犬を連れて霧の中を歩き回り、目のなかの透明な皿に溜まっていく水分の重さに耐えている。母と犬の、声にならない息のやりとり。それは霧のように心に忍び込み、目覚めの時へと浮上する意識を包んで、再び重く沈めてしまう。(「芽生え」)

 「ふたりのたましい」の「ふたり」。人間だから、「わたし」と「母」か。しかし、ヒトとモノが混ざり合っているのだから、人間と犬もまざりあう。「ふたり」が「母」と「犬」ではないとはいいきれない。「母」と「犬になったわたし」という関係だってありうる。
 関係のあいまいさ。それを利用して、複数の時間を生きる。複数を生きながら、自己に固執しない。そういう感覚が佐々木の詩を豊かにしている。ひよわ(?)な感覚を表面に出しながら、奥深いところで、原始的な(始原的な)いのちのありようを感じさせる。
 「目のなかの透明な皿に溜まっていく水分の重さに耐えている」のは誰か。「母」か「犬」か。それとも、それは想像(夢)なのだから、「わたし」の「目」であり、「わたし」が「耐えている」のかもしれない。そういう混沌をくぐりぬけるからこそ、「わたし」の「心」に忍び込むということが起きる。

他者と他者が擦れる音。耐えているのは、母と犬だけではない。光速で、身がよじられる。われら、おまえら、そのかたわらの虫も糸屑も。(「芽生え」)

 ヒトとモノの混ざり合いは、ここまでくる。
 「われら」とは誰のことか。「わたし」と「母」と「犬」ではおさまりきれない。あらゆる「他者」。「虫も糸屑も」「われら」である。
 そして、ここまで読んできて、はじめて佐々木の「キーワード」が「も」であることに気がつく。
 「ヒトもモノも混ざり合っている」(「妹」)。
 ヒト「と」モノ「が」混ざり合っている、ではなく、ヒト「も」モノ「も」混ざり合っている。「も」であるかぎりは、そのまえに別の何かと何かが混ざり合っている。
 佐々木は、その何かと何かを消しながら、何かも別の何かもという関係へ広がっていく。
 これは「わたし」の希薄化か。それとも拡張か。
 佐々木は、二者択一をしない。希薄化であると同時に拡張である、と言うだろう。自己を希薄化させながら拡張する。その矛盾。矛盾なのかに、佐々木の思想がある。詩がある。それをあらわしているのが「も」という係助詞である。
 「一個」に発表されている5篇だけではわかりにくいかもしれないが、詩集になったとき、「も」の働きがもっとくっきりわかるはずである。「も」という係助詞をつかわないと、佐々木の詩はなりたたない。そういうことばを私は「キイワード」と呼ぶ。

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