詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鎗田清太郎「足」

2007-03-09 12:25:08 | 詩集
 鎗田清太郎「足」(「現代詩手帖」2007年03月号)。
 ひとのことばは、どれだけ強くなれるのだろうか。作品を比較してのことではないのだが、鎗田の作品読みながら、そんな思いが急に沸き上がってきた。
 2連目。

ああ
一年前から私は
家の短い廊下を
杖をついてすこし
蟹のように歩くだけで
窓からはいつも同じ
タブローの絵を
見るだけになった
……愛しているからではない
そこにあるからだ

 「そこにあるからだ」。この断定が強い。
 何か書きたい、という思いがあるのだが、ここまで書いてみたものの、つづきがかけるかどうかわからない。
 鎗田の強い断定に向き合えるほど、私は私自身の肉体と向き合っていない。

 1連目に戻って詩を読み返す。

歩けない人には
風景がない
人は歩きながら
風景をつくるからだ
歩いているのは
ゴムではなく
心の通う足で
愛するものの方へ
寄って行き
嫌いなものから離れて行く
とすれば足の歩みは
愛を示すかたちであり
歩かなければ
心が風景にならない

 「心が風景にならない」。この「なる」と2連目の「ある」。その差。「なる」を支えるのは肉体である。鎗田は「頭」ではなにもつくらない。かならず「肉体」で何かをつくるということをしてきた詩人なのだろう。そして「なる」のは、肉体の外にある何かではなく、あくまで「心」である。心が、肉体の動きにしたがって、何かに「なる」。
 
 心とは、肉体が何かに触れ、肉体をとおして把握したものに「なる」。そのとき、肉体と外部が一体になる。

 鎗田は「誤読」をしない人間なのだ。肉体で触れ、つかみとったものだけを「心情」にするのである。頭で考えたことは頭まで考えたことであって「心情」と切り離す。そして、そこに「ある」と断定するだけである。
 「孤独」を生きる強さを感じる。潔癖さを感じる。


コメント
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