田中勲「ナマズの木」、若栗清子「恋文」(「ANTHOLOGY TOYAMA 2006」2006年11月05日発行)。
田中勲「ナマズの木」は第1行が特徴的だ。
「ときには」と突然はじめられると、思わず意識がひっぱられる。日常とは違う「とき」がはじまるのだと期待する。田中は、わたしの記憶では、こうしたことばの操作、読者の意識を空白に誘い込んで、そこから自在にことばを動かす、ということが得意である。
「漂い」「ゆらめく」「海洋」「しぶき」「足を取られて」「渚」とたたみかけることばのイメージの変奏も気持ちがいい。
ただ、リズムがかなり間のびしている。
独立して感じられる行が書き出しの1行だけで、あとの行は、先にあげたことばのたたみかけそのままに、たがいに寄り掛かっている。
こういう寄り掛かりあいがあると、せっかくの「意識の空白」が死んでしまう。意識がずるずるとつながっていいって、とても窮屈である。
2連目に出てくる「淋しい男の、イラクサの刺毛が密生している古い内耳を/切なく薙ぎ倒していく」ということばには、そうした寄り掛かりが、かつての「現代詩」の残滓そのものに見えてしまう。
若栗清子「恋文」。
若栗の詩も1連目が美しい。
「左耳が濡れる」。このことばで男と女の位置関係というか、接近の度合いが自然につたわってくる。2行目「声はまだ途中なので」の「途中」がとてもいい。1行目の肉体の親密感が、声の速度(?)というか、進み具合にまで、肉体的に反映する。まるで指が、いや舌が動いていくような感じだ。3行目も肉感的だ。若栗は「ことば」ではなく、「声」で恋を語るのだ、あるいは「ことば」ではなく「声」に愛を感じるのだ。つやっぽくて、とてもいい。
田中勲「ナマズの木」は第1行が特徴的だ。
ときには悲鳴だったりする
不協和音も含めて
背後にかすかな音声が漂いゆらめく部屋の中で
今朝も 海洋の方角へと誘う
無意識のしぶき、と安易なやるせなさに足を取られて
パソコンの渚をさまよいはじめる
「ときには」と突然はじめられると、思わず意識がひっぱられる。日常とは違う「とき」がはじまるのだと期待する。田中は、わたしの記憶では、こうしたことばの操作、読者の意識を空白に誘い込んで、そこから自在にことばを動かす、ということが得意である。
「漂い」「ゆらめく」「海洋」「しぶき」「足を取られて」「渚」とたたみかけることばのイメージの変奏も気持ちがいい。
ただ、リズムがかなり間のびしている。
独立して感じられる行が書き出しの1行だけで、あとの行は、先にあげたことばのたたみかけそのままに、たがいに寄り掛かっている。
こういう寄り掛かりあいがあると、せっかくの「意識の空白」が死んでしまう。意識がずるずるとつながっていいって、とても窮屈である。
2連目に出てくる「淋しい男の、イラクサの刺毛が密生している古い内耳を/切なく薙ぎ倒していく」ということばには、そうした寄り掛かりが、かつての「現代詩」の残滓そのものに見えてしまう。
若栗清子「恋文」。
若栗の詩も1連目が美しい。
きみの声を聞いていた左耳が濡れる
声はまだ途中なので
たどり着くことを急ごうとする
文字よりもずっとはれやかな肉体を持っている声は
ひよわな耳小骨をいともたやすく溺死させる
「左耳が濡れる」。このことばで男と女の位置関係というか、接近の度合いが自然につたわってくる。2行目「声はまだ途中なので」の「途中」がとてもいい。1行目の肉体の親密感が、声の速度(?)というか、進み具合にまで、肉体的に反映する。まるで指が、いや舌が動いていくような感じだ。3行目も肉感的だ。若栗は「ことば」ではなく、「声」で恋を語るのだ、あるいは「ことば」ではなく「声」に愛を感じるのだ。つやっぽくて、とてもいい。