小長谷清実「墓参の日」(「交野が原」61、2006年10月01日発行)。
感想を書くために引用しようとして、3行目まで書いたとき、不思議な気持ちになった。私は最初、後半部分に出てくる「何か」ということばについて書こうと思っていた。
「何か」としか名づけられないものを追い、何かを口にした途端にそれではいけないと感じ、別の何かを探そうとする。そのおもしろさ(と言ってしまっては、こういうときは不謹慎になるのかもしれないが)、やわらかなおかしさ、について書こうとしていた。
ところが3行目まで引用してしまうと、後半の「何か」は、どうでもいいような気がしてきたのである。後半の「何か」に小長谷の「思想」が凝縮しているのは確かだが、すでに何度か取り上げた気がする。「何か」について書いていけば、これまでと同じような小長谷に出会うんだろうなあ、というぼんやりした予感のようなものがある。それはそれで書いて確かめてみたい気持ちもあるのだが、そうしたことよりも3行目の美しさについて書きたい気持ちが急に沸き上がってきたのである。
この1行にも「何」が隠れている。「なんとか湖」。この隠れている「何」の方が、後半にあらわれる「何か」よりも深く深く小長谷のことばにからみついている感じがするのだ。
友人は死んだ。バスツアーで信州へ行ったときだ。湖の近くのホテルで死んだ。重要なことは、それだけで充分だ。湖の名前はわからなくても、友人が信州旅行中に死んだという「事実」はわかる。だからこそ「なんとか湖」と言ってしまうのだ。
人間の意識は、自分で重要ではないと思ったものを省略してしまう。
だが、それが他の人間にとっても重要でないかどうかはわからない。そこに、人間が生きていく上での不思議な秘密があるのだと思う。そのことを小長谷は、ここで暗示している。あるいは、暗示にみせかけながら、明確に書いている。
人はいつでも何かを省略する。ことばは、もともと、何かを省略しなければ、あるいは何かを切り捨ててしまわなければ、動いて行かない。重くなりすぎて、動けなくなる。何が言いたいの? 結論は? と急かされることになる。「重要ではないことは省略して、大切なことだけ言いなさい」と言われることになる。
でも、ほんとうに重要なものは、もしかすると切り捨てた部分、省略した部分にあるのでは? 何かが省略されている。変だな。納得がいかないな……。そういうことが、人間には起きはしないか。説明が簡潔で、明瞭であればあるほど、そういう不思議な思いにとらわれるということが、もしかしたら起きないだろうか。
弟の描く絵には「省略」がある。人は絵の場合も省略してしか描けないのだ。そして、それが「省略」であっても「事実」はきちんとつたわり、つたわるがゆえに、奇妙な印象が生まれる。
小長谷にとって友人は、弟が描いた絵ではありえない。ヒトの形の輪郭ではありえない。でも、それでは何? わからない。ヒト形の輪郭以上のものであることは知っているが、それを具体的に何かとは言えない。
そういうことにつまずいて、小長谷のことばは動いている。
大切なことは「なんとか湖」の「なんとか」かもしれない。湖の名前がわかったからといって友人が生き返るわけではないし、友人の記憶がかわるわけでもないと思うが、そんなふうにして省略してしまった「なんとか」のなかにこそ大切なものがあるかもしれない。
私の書いていることは、実にくだらないことかもしれない。どうでもいいことかもしれない。
実は、どう書いていいのかわからない。
1連目の「なんとか湖」の「なんとか」と、後半に出てくる「不定形に流動しつづける何か 境涯のような何か」「訂正しなくてはならない何か」が深いところで結び合い、呼応しているのを感じるのだ。「なんとか湖」と描いたがゆえに、ことばはそこへ動いていったとさえ感じる。1連目の最後「それが彼である」、3連目の最終行「私のなかの彼である」という呼応よりも、もっともっと強い呼応が「なんとか湖」の「なんとか」と「何か」の間にあると感じる。
「何か」よりも「なんとか湖」の「なんとか」にこそ、小長谷のことばの運動の本質、思想、詩があると感じる。
それがどういうものか、今の私には書くことができないけれど、確かに、そう感じるのだ。
ひとり暮らしをずっとつづけていた友人が
バスツアーに参加し
信州のなんとか湖のホテルで死んだ
感想を書くために引用しようとして、3行目まで書いたとき、不思議な気持ちになった。私は最初、後半部分に出てくる「何か」ということばについて書こうと思っていた。
不定形に流動しつづける何か 境涯のような何か
なんだろうか
あ アミガサダケだ!
その一瞬のカタチをやみくもに捕らえ
咄嗟に口にした途端に直ちに
別の明辞に
訂正しなくてはならない何か
それが今日からの
私のなかの彼である
「何か」としか名づけられないものを追い、何かを口にした途端にそれではいけないと感じ、別の何かを探そうとする。そのおもしろさ(と言ってしまっては、こういうときは不謹慎になるのかもしれないが)、やわらかなおかしさ、について書こうとしていた。
ところが3行目まで引用してしまうと、後半の「何か」は、どうでもいいような気がしてきたのである。後半の「何か」に小長谷の「思想」が凝縮しているのは確かだが、すでに何度か取り上げた気がする。「何か」について書いていけば、これまでと同じような小長谷に出会うんだろうなあ、というぼんやりした予感のようなものがある。それはそれで書いて確かめてみたい気持ちもあるのだが、そうしたことよりも3行目の美しさについて書きたい気持ちが急に沸き上がってきたのである。
信州のなんとか湖のホテルで死んだ
この1行にも「何」が隠れている。「なんとか湖」。この隠れている「何」の方が、後半にあらわれる「何か」よりも深く深く小長谷のことばにからみついている感じがするのだ。
友人は死んだ。バスツアーで信州へ行ったときだ。湖の近くのホテルで死んだ。重要なことは、それだけで充分だ。湖の名前はわからなくても、友人が信州旅行中に死んだという「事実」はわかる。だからこそ「なんとか湖」と言ってしまうのだ。
人間の意識は、自分で重要ではないと思ったものを省略してしまう。
だが、それが他の人間にとっても重要でないかどうかはわからない。そこに、人間が生きていく上での不思議な秘密があるのだと思う。そのことを小長谷は、ここで暗示している。あるいは、暗示にみせかけながら、明確に書いている。
人はいつでも何かを省略する。ことばは、もともと、何かを省略しなければ、あるいは何かを切り捨ててしまわなければ、動いて行かない。重くなりすぎて、動けなくなる。何が言いたいの? 結論は? と急かされることになる。「重要ではないことは省略して、大切なことだけ言いなさい」と言われることになる。
でも、ほんとうに重要なものは、もしかすると切り捨てた部分、省略した部分にあるのでは? 何かが省略されている。変だな。納得がいかないな……。そういうことが、人間には起きはしないか。説明が簡潔で、明瞭であればあるほど、そういう不思議な思いにとらわれるということが、もしかしたら起きないだろうか。
ひとり暮らしをずっとつづけていた友人が
バスツアーに参加し
信州のなんとか湖のホテルで死んだ
バスの出発に遅れまいとしてか
急いで部屋を抜け出ようとしてか
身体を半分 廊下の方へ突き出して
倒れていたそうです、
死んだ友人の弟さんが きょう
その現場のありさまを紙袋の裏に
ボールペンで稚拙に描いて
説明してくれた、
一本の線を中断するように
ヒト形の輪郭があって
それが彼である
弟の描く絵には「省略」がある。人は絵の場合も省略してしか描けないのだ。そして、それが「省略」であっても「事実」はきちんとつたわり、つたわるがゆえに、奇妙な印象が生まれる。
小長谷にとって友人は、弟が描いた絵ではありえない。ヒトの形の輪郭ではありえない。でも、それでは何? わからない。ヒト形の輪郭以上のものであることは知っているが、それを具体的に何かとは言えない。
そういうことにつまずいて、小長谷のことばは動いている。
大切なことは「なんとか湖」の「なんとか」かもしれない。湖の名前がわかったからといって友人が生き返るわけではないし、友人の記憶がかわるわけでもないと思うが、そんなふうにして省略してしまった「なんとか」のなかにこそ大切なものがあるかもしれない。
私の書いていることは、実にくだらないことかもしれない。どうでもいいことかもしれない。
実は、どう書いていいのかわからない。
1連目の「なんとか湖」の「なんとか」と、後半に出てくる「不定形に流動しつづける何か 境涯のような何か」「訂正しなくてはならない何か」が深いところで結び合い、呼応しているのを感じるのだ。「なんとか湖」と描いたがゆえに、ことばはそこへ動いていったとさえ感じる。1連目の最後「それが彼である」、3連目の最終行「私のなかの彼である」という呼応よりも、もっともっと強い呼応が「なんとか湖」の「なんとか」と「何か」の間にあると感じる。
「何か」よりも「なんとか湖」の「なんとか」にこそ、小長谷のことばの運動の本質、思想、詩があると感じる。
それがどういうものか、今の私には書くことができないけれど、確かに、そう感じるのだ。