詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「惑星に十一月」ほか

2007-03-04 22:58:49 | 詩(雑誌・同人誌)
 豊原清明「惑星に十一月」(「火曜日」89、2007年02月28日発行)
 1連目がとてもおもしろい。特に次の部分。

空は雲の反乱
ぶっつかる人と人
白いノートに書く言葉がみつからず
絶滅した恐竜たちに
そっとありがとうさんと呟いて
父が入れてくれたコーヒーを
啜りながら

 ことばの動きが自在である。動くたびに世界が「枠」を取り払われ自由になる。突然ひろがる。「言葉がみつからず」と豊原は書いているが、ことばがみつからないというよりは、ことばが「未生」の世界が、そこでうごめいている感じがする。
 「いのち」を感じる。



 小池田薫「しあわせですか」(「笛」239 号、2007年03月発行)。
 
窓を開けると冬が入ってきた
息がしろい
首筋から体温をうばわれて
指先が冷たい

おんなはふしあわせを食べて生きてきた

しあわせですかと尋ねる人がいて
ふしあわせとこたえる方があたりさわりがないけれど
ふしあわせはしたたかで
嘘を本当にしてしまう

 「したたか」ということばはこんなふうにつかうのだ、と教えられた気持ちになる。「あたりさわり」も同じである。ここには新しいものはないかもしれない。そのかわりに生活をくぐりぬけてきた時間のつやのようなものがある。
 それに先立つ冬の描写、その肉体とのかかわりがとても自然で、「しあわせですか」からの行と静かに呼応している。
 詩のあたらしい可能性があるというわけではないけれど、こういうことばの落ち着きは読んでいてほっとする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督「善き人のためのソナタ」

2007-03-04 14:24:52 | 映画
監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 出演 ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ケデック

 たいへんすばらしいシーンがある。
 男が盗聴している。彼は会話に耳を澄ます。聞こえてくることばから何らかの意味、秘密をさぐろうとしている。しかし、思いがけないものが耳に流れてくる。ピアノソナタ。それもレコード(CD)ではなく、男が盗聴している相手(劇作家)が弾いている。こころが引きつけられる。そのとき聞こえたのは、実は、ピアノの音ではない。旋律でもない。リズムでもない。ことばにならない「声」そのものである。男は、劇作家が、そしてその愛人の女優が、まだことばにして語っていない「祈り」そのものを聞いてしまう。
 男は聞きながら、手で、着ている服の胸元をふりしぼる。体が傾く。まるで男自身が音楽のなかに潜む祈りそのものに溶け込んでいくようだ。祈りをとおして、男と劇作家、女優が一体になって行くようだ。(そして、スクリーンを見ている観客も。映画とは、映像と音楽さえあれば充分、ということをあらためて実感させられた。)
 ピアノソナタを聞いたときから男は、劇作家と愛人と一体になって行く。
 そのことを象徴するのが、床にチョークで書かれた「部屋割り」である。男は最初は椅子に座って盗聴していた。それがピアノソナタを聴いた後では、椅子に座っているだけでは納得できなくなる。チョークで書かれた部屋割りにあわせ、劇作家が書斎へ行けば書斎へ、ベッドへ行けば寝室へと移動する。男は劇作家(そして、女優)になってしまうのである。
 男はこのときから劇作家、女優を告発するために盗聴するのではなく、彼らを守るために盗聴する。東ドイツという国家権力、党という権力から守るために盗聴する。誰だって自分自身を守るものである。劇作家、女優は、男にとって彼自身なのだ。
 男は、劇作家、女優の声にならない声(ピアノソナタの演奏)まで聞いて、彼らと一体になっているが、劇作家、女優にとっては、男は「一体」とはなっていない。あいかわらず国家権力という暴力のままである。この重なり合わない部分が、すべての不幸を引き起こす。(この重なり合うこと、重なり合わないこと、というのは劇作家と女優の間にもある。劇作家と彼の友人の演出家との間にもある。拡大して言えば「国家」と「市民」の間にもある。そういう重なり合わないことが、すべての不幸の始まりであり、3人の関係はそれを象徴するものである。)

 重なり合う部分と重なり合わない部分、そのずれの間で、女優が死に、劇作家が生き残る。男はエリートの道から脱落して行く。
 その後の展開も、まさに映画そのものである。映画でしか描けない方法で人生を描いている。
 劇作家はなぜ自分だけ無事に生き残れたのか、その秘密を知る。男の存在を知る。だが、そのことを直接男には告げない。男から真相を聞き出そうとはしない。「ことば」が省略されているのである。ピアノソナタを盗聴してしまうシーンと同じように、そこでは「ことば」は省略される。そのかわりに映像が語る。男は盗聴員をやっていたときのようにさっそうとは歩かない。前かがみになり、郵便カートをひきずって歩いている。その姿だけで、劇作家はすべてを知る。男のなかで起きたこと、そして男がしてくれたことのすべてを知る。
 ひとはことばでなにごとかを考えるし、また知りもするのだが、知るということはことばだけでするものではない。目で見て知る、耳で聞いて知る。知ると同時に感じる。そして感じるということは、知るということを超越して、人間を突き動かしてしまう。映画は、その見ること(映像)、聞くこと(音楽)を重ね合わせることで、「感じ」を表現し、「知る」ことを上回る何かを伝えるものだが、この映画は、そういう体験をまさに観客に教えてくれる。劇作家は、男を「映画」として見ているわけではないが、直に見ることによって、実際にことばをかわす以上の会話をしている。男の肉体の動きそのものから、肉体のなかにひそむ声を聞いている。その声は、たぶん、会話することでは聞き出すことのできない、静かな静かな、あるいは小さな小さな声である。その小さな声さえももらすまいと男は前かがみになって歩く。そのときの肉体の切なさ……。
 劇作家は、男とは会話せず、しかし会話をしないことによってより深く感じ取った男の「祈り」あるいは「誇り」、人間の尊厳そのものに対して、長い長い独白を捧げる。ピアノソナタのように。いつか、男がそっとその独白を聞いてくれると信じて「小説」を書く。劇作家が体験したこと(この映画のなかで起きたこと)を書く。

 ここでも、この映画は、ことばを省略している。
 劇作家が具体的にどんなことばで体験を語ったかは1行も紹介されてはない。しかし、スクリーンをみつめる観客にはそのすべてがわかる。男がどんな気持ちでその小説を読み終えたか、ということもことばではなにも説明されない。しかし、観客にはすべてがわかる。小説を読む前の、本を買ってレジでお金を払うときの男の表情からだけで、すべてがわかる。
 まさに映画である。映画は映像と音楽でできている。ことばは付録である。



 「華麗なる恋の舞台で」のアネット・ベニングは楽しい演技だったが、この「善き人ひとのためのソナタ」のウルリッヒ・ミューにはただただ感嘆する。自分の気持ちを伝えることばは死んで行く女優に対することばくらいしかない。ひたすら自分の感じていることを隠すためことばしか発しない。それなのに、彼の声が聞こえる。その声を伝える肉体、演技がただただすばらしい。ピアノソナタを聞くシーンもいいけれど、最後の隠した喜びのアップが特にいい。彼が喜びを押し殺している分だけ、その反動のようにして、観客のなかでうれしさがあふれてくる。この一瞬、劇場中が、シーンとして、それからぐぐぐっと感動がこみ上げるときの緊張感--ああ、これは映画館のなかでしか感じられない喜びだ。誰も声を発しない。それでも、隣に座った見知らぬひとがすっと背筋をただし、映像にのめりこんで行き、そこから解放されて自分自身のこころにかえり、そっと自分のこころをだきしめる--その動きにならない動きが劇場をつつむ。
 ぜひ、映画館で見てください。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする