井坂洋子「ふた葉」(「一個」創刊号、2007年春)。
井坂洋子という詩人は、いい意味での悪意に満ちている。
「ふた葉」。
こういう書き出しに出会うと、繰り返される暮らし、人の営みの積み重ねをついつい考えてしまう。いわゆる「生活詩」などを。
ところが井坂のことばは「暮らし」というとき思い浮かべがちなものへは動いては行かない。
ヨガをする女性の肉体、その形へと、ことばが動いて行く。木の階段を上ったことと、ヨガのポーズと何の関係がある? ヨガをする女と何の関係がある?
井坂は、なんとも不思議な、悪意に満ちた関係をさらりと書いて行く。
「質問したことはないが」。
ここに悪意がある。
なぜ質問しないか。知っているからだ。肉体に関することは、それぞれが自分で答えをもっている。間違っていても(他人と考えが違っていても、という意味である)、それはどういうことはない。性愛についても、同じである。間違っている(他人と違っている)ということが、個人であることの証明である。だから答えを求めるように質問などする必要はない。
それなのに、井坂は「質問したことはないが」とわざわざ書く。
そういう質問は自分を知ることにはならない。他人がそれについてどう考えているかをはっきりさせるだけである。そんな厭味なことをしない、とわざわざ井坂は書く。そう書くことで、そんなことは知っている、とも告げるのだ。
誰も傷つけない。
すべてを井坂自身で受け止め、受け入れる。
こういう「いい悪意」は批判できないゆえに、とてもやりきれない。
同じ「一個」に発表されている佐々木の作品と比べると、佐々木のことばの、なんとセンチメンタルなことか、という思いがする。
「つながり」など、どこにもない。木の階段のうえのへこみだって、「つながり」なんかではないのだ。「くらし」なんかとは関係ないのだ。
井坂には井坂の肉体があり、それを井坂は受け入れる。それだけである。肉体はもちろんそのときどきに応じて、たとえばレモンの鉢植にも人間の肉体との共通性を感じるけれど、だからといって深い意味はない。命があるものはなんでも重なり合う。それだけのことである。重なりを感じたからといって、井坂自身の肉体が、その感じによってかわるわけではない。
肉体への、この強い「実感」のようなものには、とても太刀打ちできない。
太刀打ちする必要などないといわれればそれまでであり、たしかにそのとおりである。その、そのとおりであるとしかいいようのないことを井坂は書く。そこに、何とも言えない悪意を私は感じる。
この2行にあらわれる「のぼる」の強さ。共通の「動詞」で肉体をしめくくる強さ。これは、やはり「悪意」としか、いいようがない。
井坂洋子という詩人は、いい意味での悪意に満ちている。
「ふた葉」。
木の階段をのぼるとき
何人もの靴の先で削られた
へこみに誘われる
こういう書き出しに出会うと、繰り返される暮らし、人の営みの積み重ねをついつい考えてしまう。いわゆる「生活詩」などを。
ところが井坂のことばは「暮らし」というとき思い浮かべがちなものへは動いては行かない。
古い建物の
ガラス戸の向こう
卍のポーズでねじれたままの女のひとがいる
ヨガをする女性の肉体、その形へと、ことばが動いて行く。木の階段を上ったことと、ヨガのポーズと何の関係がある? ヨガをする女と何の関係がある?
井坂は、なんとも不思議な、悪意に満ちた関係をさらりと書いて行く。
数日前 園芸センターでみた
レモンの鉢植
は あんな細枝に
大ぶりの実ったレモンが
図体を感じさせたが
からだの重い ひとの
図体をきゅうくつそうにしているのは
なんだか可憐だ
ヨガ教室の ヨガをするひとを通りすぎて
部屋に辿りつくまで
埋めた種に
ふた葉が生えてくる
私は質問したことがないが
疑問が歯のぎざぎざのように湧く
性愛に関した二、三のこと
滅びについても一点
初潮を迎えた十二の年から
月とは関わり深かったが
かぐやのように
じきに天にのぼり
十二以前の細い躯になるのは楽しみだ
(谷内注「躯」は原文は正字体)
「質問したことはないが」。
ここに悪意がある。
なぜ質問しないか。知っているからだ。肉体に関することは、それぞれが自分で答えをもっている。間違っていても(他人と考えが違っていても、という意味である)、それはどういうことはない。性愛についても、同じである。間違っている(他人と違っている)ということが、個人であることの証明である。だから答えを求めるように質問などする必要はない。
それなのに、井坂は「質問したことはないが」とわざわざ書く。
そういう質問は自分を知ることにはならない。他人がそれについてどう考えているかをはっきりさせるだけである。そんな厭味なことをしない、とわざわざ井坂は書く。そう書くことで、そんなことは知っている、とも告げるのだ。
誰も傷つけない。
すべてを井坂自身で受け止め、受け入れる。
こういう「いい悪意」は批判できないゆえに、とてもやりきれない。
同じ「一個」に発表されている佐々木の作品と比べると、佐々木のことばの、なんとセンチメンタルなことか、という思いがする。
「つながり」など、どこにもない。木の階段のうえのへこみだって、「つながり」なんかではないのだ。「くらし」なんかとは関係ないのだ。
井坂には井坂の肉体があり、それを井坂は受け入れる。それだけである。肉体はもちろんそのときどきに応じて、たとえばレモンの鉢植にも人間の肉体との共通性を感じるけれど、だからといって深い意味はない。命があるものはなんでも重なり合う。それだけのことである。重なりを感じたからといって、井坂自身の肉体が、その感じによってかわるわけではない。
肉体への、この強い「実感」のようなものには、とても太刀打ちできない。
太刀打ちする必要などないといわれればそれまでであり、たしかにそのとおりである。その、そのとおりであるとしかいいようのないことを井坂は書く。そこに、何とも言えない悪意を私は感じる。
木の階段をのぼるとき
じきに天にのぼり
この2行にあらわれる「のぼる」の強さ。共通の「動詞」で肉体をしめくくる強さ。これは、やはり「悪意」としか、いいようがない。