詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

泥3C(デイドロ・ドロシー)「不在」

2007-05-02 23:25:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 泥3C(デイドロ・ドロシー)「不在」(「モーアシビ」9、2007年04月20日発行)。

 その日、時間がないのに約束をしてしまった。
 後悔してももう遅い。次はない相手だ。そして待ち望んだ再会。延期したり中止したりする気は毛頭なかった。仕事の後に、二時間半も電車を乗り継いで約束の場所に行った。果たして、時間になっても待ち人は現れず、私は雨の中立ち続けた。終電はもうなく、それでも私は恨みに思わなかった。その人を待つという時間が、私の生活の中に出現したことが、もう十分な刺激だったから。その人の出現に匹敵する時間だったから。

 「もう」が3回出てくる。「すでに」という意味をもっている。そのことばのなかに「過去」がある。そして、この3回の「もう」は作者だけに必要な「もう」である。デイドロ自身が自分に言い聞かせていることばである。(試しに、「もう」を省略して読んでみるとわかる。読者にとっては「もう」があろうがなかろうが、「事実」はかわらない。)
 そのあとも「もう」は3回出てくるが、「もう」と「もう」の間隔が長くなる。「もう」と「もう」の間に多くのことばが入り込んでくる。この変化がおもしろい。
 「もう」「もう」「もう」と自分自身に言い聞かせながら、デイドロは自分の時間(過去)を反芻し、時間(過去)を濃密にしてゆく。濃密にすることで、過去を切り離してゆく。「もう」ということばで「過去」を引き寄せ、引き寄せることで「過去」という時間があることを明確にする。

そういえば、この文章も「その日、時間がないのに約束してしまった。」で書き出されている。

 2連目の途中に出てくるそのことばが象徴的だが、デイドロは繰り返し自分自身を見つめなおし、「過去」をことばにしてゆく。ことばにすることで、「過去」をはっきりさせ、「過去」から「現在」へ、さらに「未来」へと自分を突き動かす。
 その仮定で「恨み」が消えてゆく。
 「恨みには思わなかった」と最初の方に出てくるが、こういうことばが出てくるのは「恨み」が残っている証拠であり、ほんとうに「恨み」に思わなかったら「恨み」ということばなど思い付くはずがない。「恨み」をかかえて書きはじめ、書くことで「恨み」を消して行ったというのがこの詩の成り立ちだろう。

 そして、さらにおもしろいのは、デイドロが「恨み」を消し去ってしまった後だ。何が残るか。「待つ」という行為だけが残る。「未来」だけが残る。「あなた」を待っているのか。そうではなく、デイドロが「待つ」という行為そのものになる。「もう」の入り込む余地のない人間になってしまう。「待つ」とは「過去」でも「現在」でもなく「未来」を待つのだ。デイドロは「過去」から「未来」へと変身するのだ。
 この変化がおもしろい。
 デイドロは詩を書くことで、詩を書く前のデイドロとはすっかりかわってしまったのだ。ちょっとびっくりしてしまった。

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入沢康夫と「誤読」(メモ11)

2007-05-02 22:16:35 | 詩集
 入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』(1962年)。
 架空の島。そこでは奇妙なことが起きる。ありえないことが起きる。
 「3」。
 「僕」はドドの絵を見つける。「広辞苑」によると1681年に絶滅したといわれる鳥だ。インド洋モーリシアス島にいたという。そうすると、「エンゲルハンス氏の島」とは「モーリシアス島」になるのだが、こうした「事実」は、ここに書かれていることが「事実」ではないということを明らかにするためのものにすぎない。
 入沢はこの作品では「事実」など書いていない。「膵島」が「島」ではないように、ここでは「誤読」が書かれているのだ。
 「3」の後半。

「ここにはこの鳥がいまでも棲んでいるのですか?」「あら、鳥ですって。これはお父さまの肖像よ。だいいち、これさかさまになっているわ」少女は額をおき直してくれたのだが、それはやはりドドの絵のさかさまになったものとしか思えなかった。

 人によって「事実」が違う(立場が違えば「事実」が違って見える)ということはありうる。それはそうだが、「人間」が「鳥」に見えたり、「鳥」が「人間」に見えたりするようなことは、「立場」の違いだけでは説明できない。
 そして、入沢は、ここでは「説明」などしない。少女が嘘をついているのか、「僕」が絵を正確に認識できないのか。そして、その理由はどこにあるのか、というようなことは説明はしない。
 人は、たとえばこの「3」の少女と僕のように、こんな奇妙な会話ができるのだ、どんな奇妙なことばも会話になってしまうのだ--ということを入沢は明らかにするだけだ。なぜ会話が成り立つのか。
 「誤読」するからだ。
 人は、相手が何か言ったとき、そのことばは何かをつたえようとしていると勘違いする。何かつたえようとしていると思い込もうとする。嘘なら嘘で、その嘘の背後に何かがあると思い込もうとする。
 そして、そういう真理は読者にもあるのだ。
 入沢が書いていることば。それは架空の舞台の、架空の人物の会話だが、そのことばを読んだとき、読者は、その背後になるかがあると思い込む。その何かを知りたいと思う。何もなくても何かがあると「誤読」したがる。
 入沢のことばは、そういう「誤読」したがる読者の心理・真理をひっぱって動いてゆく。「誤読」したくない人には、入沢のことばは単なる「でまかせ」ということになるだろう。



 「5」の後半にとてもおもしろい部分がある。

「あの、海へ出るにはどの道をゆくんでしょう」「海ですって?」薬屋の主人はあっけにとられた顔をするが、すぐに僕が他処者であることに気がついて、「歩いては絶対にこの街の外へは出れません。何でもよいからとにかく乗り物に乗ってこの街の外へ出れば、海はすぐそこです」「なぜ歩いては出れないのです」「多分構造上の問題だと思いますよ」とこの老店主は平然として言う。

 「構造上の問題」。入沢は「構造」というものに関心がある。「詩」の「構造」。「ことば」の「構造」。「論理」の「構造」。そして、「誤読」の「構造」。
 歩いては街から出ることができないのに、乗り物に乗れば出ることができる。そういうことは「現実」にはありえない。しかし、ことばでなら、そういうことを言うことができる。書くこともできる。ことばは「でたらめ」(現実にはありえないこと)を言うこともできるし、書くこともできる。そして、その「でたらめ」を引き受けて、さらに「ことば」をつづけることもできる。(入沢の作品は、まだまだつづいてゆく)。
 なぜだろう。
 私たちは「ことば」をとおして、何か、いま、ここにはないことに触れたいという欲望があるのかもしれない。いま、ここにある「真実」ではなく、いま、ここにないものに触れたいという欲望があるのかもしれない。
 そして、その欲望は「真実」に触れたときに、その「真実」ではなく、別のものを欲するということもあるかもしれない。「真実」ではなく「誤読」したい、「誤読」することで、「真実」を超えたものをつかみとりたいのかもしれない。

 そういう精神の「構造」というものがあるかもしれない。

 この「5」の部分は、「構造」ということばを使いたいがために書かれた部分のように思える。「誤読」には「誤読」の「構造」がある。
 「構造」とは平面構造ということばがないわけではないが、なにかしら「立体」を感じさせる。そこには立体的な広がりがある。「誤読」もまた立体的な広がりかもしれない。


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