泥3C(デイドロ・ドロシー)「不在」(「モーアシビ」9、2007年04月20日発行)。
「もう」が3回出てくる。「すでに」という意味をもっている。そのことばのなかに「過去」がある。そして、この3回の「もう」は作者だけに必要な「もう」である。デイドロ自身が自分に言い聞かせていることばである。(試しに、「もう」を省略して読んでみるとわかる。読者にとっては「もう」があろうがなかろうが、「事実」はかわらない。)
そのあとも「もう」は3回出てくるが、「もう」と「もう」の間隔が長くなる。「もう」と「もう」の間に多くのことばが入り込んでくる。この変化がおもしろい。
「もう」「もう」「もう」と自分自身に言い聞かせながら、デイドロは自分の時間(過去)を反芻し、時間(過去)を濃密にしてゆく。濃密にすることで、過去を切り離してゆく。「もう」ということばで「過去」を引き寄せ、引き寄せることで「過去」という時間があることを明確にする。
2連目の途中に出てくるそのことばが象徴的だが、デイドロは繰り返し自分自身を見つめなおし、「過去」をことばにしてゆく。ことばにすることで、「過去」をはっきりさせ、「過去」から「現在」へ、さらに「未来」へと自分を突き動かす。
その仮定で「恨み」が消えてゆく。
「恨みには思わなかった」と最初の方に出てくるが、こういうことばが出てくるのは「恨み」が残っている証拠であり、ほんとうに「恨み」に思わなかったら「恨み」ということばなど思い付くはずがない。「恨み」をかかえて書きはじめ、書くことで「恨み」を消して行ったというのがこの詩の成り立ちだろう。
そして、さらにおもしろいのは、デイドロが「恨み」を消し去ってしまった後だ。何が残るか。「待つ」という行為だけが残る。「未来」だけが残る。「あなた」を待っているのか。そうではなく、デイドロが「待つ」という行為そのものになる。「もう」の入り込む余地のない人間になってしまう。「待つ」とは「過去」でも「現在」でもなく「未来」を待つのだ。デイドロは「過去」から「未来」へと変身するのだ。
この変化がおもしろい。
デイドロは詩を書くことで、詩を書く前のデイドロとはすっかりかわってしまったのだ。ちょっとびっくりしてしまった。
その日、時間がないのに約束をしてしまった。
後悔してももう遅い。次はない相手だ。そして待ち望んだ再会。延期したり中止したりする気は毛頭なかった。仕事の後に、二時間半も電車を乗り継いで約束の場所に行った。果たして、時間になっても待ち人は現れず、私は雨の中立ち続けた。終電はもうなく、それでも私は恨みに思わなかった。その人を待つという時間が、私の生活の中に出現したことが、もう十分な刺激だったから。その人の出現に匹敵する時間だったから。
「もう」が3回出てくる。「すでに」という意味をもっている。そのことばのなかに「過去」がある。そして、この3回の「もう」は作者だけに必要な「もう」である。デイドロ自身が自分に言い聞かせていることばである。(試しに、「もう」を省略して読んでみるとわかる。読者にとっては「もう」があろうがなかろうが、「事実」はかわらない。)
そのあとも「もう」は3回出てくるが、「もう」と「もう」の間隔が長くなる。「もう」と「もう」の間に多くのことばが入り込んでくる。この変化がおもしろい。
「もう」「もう」「もう」と自分自身に言い聞かせながら、デイドロは自分の時間(過去)を反芻し、時間(過去)を濃密にしてゆく。濃密にすることで、過去を切り離してゆく。「もう」ということばで「過去」を引き寄せ、引き寄せることで「過去」という時間があることを明確にする。
そういえば、この文章も「その日、時間がないのに約束してしまった。」で書き出されている。
2連目の途中に出てくるそのことばが象徴的だが、デイドロは繰り返し自分自身を見つめなおし、「過去」をことばにしてゆく。ことばにすることで、「過去」をはっきりさせ、「過去」から「現在」へ、さらに「未来」へと自分を突き動かす。
その仮定で「恨み」が消えてゆく。
「恨みには思わなかった」と最初の方に出てくるが、こういうことばが出てくるのは「恨み」が残っている証拠であり、ほんとうに「恨み」に思わなかったら「恨み」ということばなど思い付くはずがない。「恨み」をかかえて書きはじめ、書くことで「恨み」を消して行ったというのがこの詩の成り立ちだろう。
そして、さらにおもしろいのは、デイドロが「恨み」を消し去ってしまった後だ。何が残るか。「待つ」という行為だけが残る。「未来」だけが残る。「あなた」を待っているのか。そうではなく、デイドロが「待つ」という行為そのものになる。「もう」の入り込む余地のない人間になってしまう。「待つ」とは「過去」でも「現在」でもなく「未来」を待つのだ。デイドロは「過去」から「未来」へと変身するのだ。
この変化がおもしろい。
デイドロは詩を書くことで、詩を書く前のデイドロとはすっかりかわってしまったのだ。ちょっとびっくりしてしまった。