詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ23)

2007-05-18 14:38:05 | 詩集
 入沢康夫『倖せ それとも倖せ 続』(1971年)。
 「誤解」ということばは一般的にどうつかわれるだろうか。正しく理解されないこと、正しく理解していれば、その結果として間違いをせずにすむ、というふうにしてつかわれると思う。ところが入沢は違ったふうにしてつかう。
 「鬼百合の花粉 あるいは虎の行動」。

 人口一千万の都市の中心に 人生の意味を誤解することのできなかった
連中が 投身するための大湖水があり

 入沢の論理にしたがえば、人生の意味を「誤解」すれば、人間は投身(自殺)をしなくてすむ。世の中には投身自殺する人間よりも、投身自殺をしない人間の方が圧倒的に多い。世の中は、ほとんどの人間が人生の意味を「誤解」している。そして、のうのうと生きているということになる。
 だが、人生の意味を「誤解」するとは、どういうことだろうか。

 人口一千万の都市の中心に 人生の意味を誤解することのできなかった
連中が 投身するための大湖水があり
 その一番奥には小さな滝
 猫の顔をした岩のこめかみを水はかけおりる
 水の精
 そんなものには 言うところの魔境アフリカ
 あそこだってお目にかかったことがないが その岩の裏側で 少くとも
 ソーダファウンテンの女店員が 心もち首筋から頬を蒼くこわばらせて
虎を待っているのだ

 「誤解」しなかった(できなかった)人間には大都会のなかの大湖水が見え、滝が見え、そこには虎もやってくる……。こういう現実は、実際にあり得るか。常識的に考えて、存在しない。
 入沢が書いていることは「逆説」なのである。

 「誤解」とは、自分自身の考えを中心にして、自分勝手に世界を読み解くことである。自分の都合にあわせて世界を解釈することである。そういう図太い神経(頭脳)を持っていなければ、世界を生き抜くことはできない、という逆説がここには書かれている。
 世界を自分の思考にあわせて組み立てなおし、その世界を押し通す人には、東京、人口一千万人の都市の中心にある大湖水は見ることができない。それを見ることができるのは、自分の考えて世界を組み立てなおすことのできない人間、自己中心的ではない人間、いわば繊細な詩人(?)だけである、という逆説がここには描かれている。
 だからこそ、繊細な詩人の見た風景は、こんなにも美しい……と入沢は描写を重ねる。
 だが、ほんとうだろうか。

 人口一千万の都市の中心に 人生の意味を誤解することのできなかった
連中が 投身するための大湖水があり

 この2行こそ「誤解」ではないだろうか。「誤解」ではないという証拠はどこにもない。証拠がないことを、入沢は、詩という形式を借りて書き並べているだけである。そういうことができるのが詩であると言っている。

 詩とは「誤解」「誤読」をつみかさねたものである。「誤解」「誤読」をできる人間だけが手にすることができる世界である。そうした世界のなかで、入沢は「誤解することのできなかった」人間こそが真実の世界に出会うという「誤解」を書く。
 これもまた、入沢の「逆説」なのだ。
 誤解×誤解=正解ということばの数学を入沢は証明しようとしている。

 だが、こうした数式(数学)そのものも「誤解」(誤読)ではないとは、だれもいえない。これもまた「誤解」でありうる。

 何がいいたいのか。私は何がいいたいのか。

 ほんとうは単純なことである。ことばはどんな「数学」(数式)も書くことができる。そして、その書くという行為のなかに、その数学へのあこがれのようなもののなかに、詩がある。入沢はそういう詩をめざしている。
 ことばによってできあがる世界、その魔法のような不思議な世界ではなく、そういう世界を構築する構造そのもののなかに詩があると入沢は感じている。世界そのものではなく、世界の構造そのものに詩を感じている。ことばが、そういう構造をつくりうるということに詩を感じている。

 私を攻めるためにここに集っておられる諸君よ
 君たちの怒りは出発において当を得ておるにせよ その対象の選択にお
いて誤解ありと言わざるを得ない

 私はなんだか楽しくなって、この部分で笑ってしまう。
 入沢のことばが描き出す世界、その表層のきらびやかな形に詩があるのではなく、その世界を支える構造に詩がある。入沢は繰り返し繰り返し、そう語っている。
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内田良介『アルカディアの木』

2007-05-18 10:55:52 | 詩集
 内田良介『アルカディアの木』(七月堂、2007年03月28日発行)。
 「あとがき」の文章が美しい。車のフロントガラスに衝突してきた鷺を描いている。

鷺はゆっくりと頭をめぐらせ、ぼくを一瞥した。それは不思議な眼だった。一切の余剰をそぎ落とし、生き続けることにのみ費やされてきた、ある尊厳さを湛えていた。(略)しばらく辺りを見回したのちに、すっとそらに舞い上がっていった。どんな感慨も湧かないほど一瞬のことであった。

 「どんな感慨も湧かない」。空白を空白のまま残す清潔さが光っている。気に入って、三度読み直した。

 この「あとがき」に通じる世界が「異端の頌歌(ほめうた)」のなかに出てくる。

あなたは一斉に立ち上がり
すべての内に生きて動いている
一本の弦を過去から未来に向かってふるわせる
そしてぼくのなかからあなたを目覚めさせる

こうしてぼくらは出会い
幻の主客は消える

 「主客は消える」。この瞬間の美しさ。「一」は「多」のなかにあり、「多」は「一」である。そして「多」は「他」であり、「他」との一期一会のなかで、「我」は「他」に目覚めさせられる形で「我」に出会う。「他」に出会うことは「我」に出会うことである。
 この瞬間「感慨」はたしかにあるのだが、それはことばにならない。
 ことばにならないものは、ことばにしない。それでは文学にならない、という批判もあるかもしれないが、ことばにならない感慨をことばにしないまま、大事に抱き締めるということも大切なことだろうと思う。
 今はことばにならないが、いつか、別の機会に、別の「一期一会」の瞬間に、今の「一期一会」が重なり、その瞬間に思いもかけなかったとこばとして浮かび上がってくるかもしれない。そのときまで待ってもかまわないのだ。そういう「待つ力」を、「どんな感慨も湧かない」ということばに感じた。出会いを大切にする力を感じた。

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