詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ピーター・ネス監督「モーツァルトとクジラ」

2007-05-10 23:05:18 | 映画
監督 ピーター・ネス 出演 ジョシュ・ハートネット、ラダ・ミッチェル

 アスペルガー症候群の二人の恋の物語。だが、描かれているのは彼らの特別な事情ではない。恋愛の共通問題だ。
 恋愛は誰にとっても重要な問題であり、そこに気にかけることは誰もが同じである。相手が自分を愛してくれているか、相手に対して何ができるか。そういう本人同士の問題以外にひとつ重要なことがある。自分自身の周囲にいる人間(家族、あるいは仕事の同僚、友人)が自分の愛している人間をどう見るか。自分が愛している相手を、彼らは受け入れてくれるだろうか。そして、この問題がやっかいなのは、愛されている人間にとっては、愛してくれている人の周囲にいる人間が自分を受け入れてくれるかどうかなんてどうでもいいじゃないか、ほんとうに自分を愛してくれるなら、自分のためにまわりの人と戦って、自分を守ってほしい、という気持ちを呼び覚ますことだ。
 男が会社の上司を夕食に招く。そのシーンに、この問題が丁寧に描かれている。上司は二人がアスペルガー症候群であることを知っている。知っていることを知りながら、二人はやはり上司の目を気にする。どう受け入れられるかを気にする。自分の気持ちをどう表現すれば夕食という場の空気を壊さずに会話できるかを気にする。そして気にすれば気にするほど、場の空気を壊すようなことになってしまう。そして、二人とも、相手はほんとうに自分を愛してくれているのか、愛してくれているなら、なぜこんなことになってしまうのか、と怒りだす。
 ここで浮き彫りにされるのは、それぞれの人間の純粋さである。
 二人とも、二人の愛には直接関係のない上司に自分の気持ちを傷つけられたくないという思いがある。女は絵が好きだ。上司が絵について何か語る。そのことばが女の心を、純粋な絵を愛する気持ちを踏みにじる。踏みにじられたように感じ、女は反発する。怒りをおさえられない。それは女がアスペルガー症候群だからではなく、絵を愛するこころが純粋すぎるからだ。男は男で、女との生活を維持するためには仕事を手放すわけにはいかない。女を愛しているから仕事をうまくやりたいと思っているのに、そのこころも知らずに女は自分の主張だけをしていると感じる。怒りをおさえきれなくなる。ふたりとも、場をとりつくろうということができない。純粋であるがゆえに、自分をごまかすことができない。(男は、自分自身をごまかすというか、怒りや興奮をおさえるために「数字」にのめりこむが、そうやって得られる平穏さは一瞬のことだ。)
 この純粋な悲しみ、苦悩。それが非常にくっきりと描かれる。こういう純粋な映画を見ていると、監督がアスペルガー症候群の恋愛を題材にしたのは、人間の、恋愛のときのこころの悲しみ、苦悩、よろこびを、より純粋な形で表したかったからだとさえ感じる。
 アスペルガー症候群は障害ではない。少しだけ不器用なのだ。その不器用さとは、自分自身をごまかすことができない、自分の感情に対して嘘をつくことができない、という不器用さだ。純粋さゆえに、ふたりは苦しむのだ。
 主演のふたりは、そういう純粋さを、はらはらどきどきさせる形で具現化していた。こんなにはらはらどきどきする恋愛映画は初めてだ。特にラダ・ミッチェルの感情の起伏が透明で美しい。その透明な感情の美しさをとおして永遠が見える。そんな気持ちになる映画だ。

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入沢康夫と「誤読」(メモ17)

2007-05-10 22:01:52 | 詩集

 入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』(1968年)。
 Ⅲの部分。

かつて名を許知渡と呼ばれた第四のどぶ川
それは今しがた越えた
右手には ぼくの生まれた町の幽霊が洞穴のように伸び
それから大勢の青ざめた顔がのぞき

 この部分にかぎらず、この詩集には多くの注釈がついている。
 「大勢の青ざめた顔がのぞき」は『神曲』からの想起が絡んでいると書いたあと、入沢は続けている。

更に、朔太郎の「地面の底の病気の顔」(『月に吠える』)の第一節、
  「地面の底に顔があらはれ
  さみしい病人の顔があらはれ」
の印象もこれに加わった。

 これは注釈を超えた注釈だ。入沢の1行に朔太郎からの影響があるにしろ、それはわざわざ影響と告げるようなことではない。朔太郎の2行と入沢の1行において共通することばは「顔」だけである。「顔」ということばは誰もが日常的につかう。そのことばに朔太郎の影響があると告げられても、それを確かめる方法はない。「青ざめた顔」にまでことばをひろげて見つめなおしても同じである。「青ざめた顔」ということばはいくつかの詩集、小説を開けば必ず見つかるだろう。「青ざめた顔」は朔太郎の影響を受けていると入沢が告げるのは入沢の自由だが、ほんとうに朔太郎の影響なのか、それとも違った誰かの影響なのかは、誰にも判断できない。入沢の「嘘」かもしれない。
 こういう注釈において、それが真実かどうかは問題ではないのだ。特に入沢のこの作品においては注釈が真実かどうかは問題ではない。それがたとえ真実を語っていたとしても、それが真実であるということは問題ではない。
 重要なのは入沢が「大勢の青ざめた顔がのぞき」という1行の意味を(そこにこめられた思いを)、入沢だけのことばで説明しようとしていないということだ。
 入沢の1行を『神曲』によって「誤読」させ、さらには『月に吠える』によって「誤読」させようとしていることだ。入沢自身が、『神曲」『月に吠える』によって彼自身の1行を積極的に「誤読」している、ということだ。
 意味・思いを統一するのではなく、違うものへ通じるものにしておく。入沢の思いだけでしばるのではなく、他のものへ通じるものにしておく。
 『神曲』を読んでいなくても入沢のことばは意味を浮かび上がらせる。『月に吠える』を読んだことのない読者にも入沢のことばはつたわる。しかし、そういう無垢なつたわり方を入沢は拒否している。注釈は本来、自分自身の思いを正確につたえるためのものだが、入沢は逆につかっている。自分自身の思いを正確につたえるふりをしながら、自分自身の思いを消している。『神曲』のなかへ、『月に吠える』のなかへ、隠している。そして、その隠したものを、隠したと書くことで、読者が「隠しどころ」までたどって、入沢の1行を「誤読」してくれることを願っている。
 入沢は「誤読」されたいのだ。

 Ⅳの部分。

ふりかえれば、木綿(ゆう)かけた榊の裏で、血ばしつた目が、こちらをし
きりにうかがつている。(それにしても、どこにあるのだ、わが出
雲は。ことごとく、これは、贋の出雲)

 さまざまな伝承(神話)によって浮かび上がってくる出雲。入沢が対面している出雲が、さまざまな神話の寄せ集めでできているなら、それは「贋の出雲」であり、ほんものは違う形をしている--という論理を、入沢のことばにあてはめるとどうなるだろうか。
 入沢は彼の詩のことばがことごとく『神曲』『月に吠える』やあれこれの作品、神話の影響を受けている、そういうことばを寄せ集めたものだと注釈で書いている。そうすると、それは入沢のことばというよりも、ことごとく、「贋の入沢」になってしまう。

 「贋」であることは「誤読」によって成り立っているから「贋」なのである。その「贋」(誤読)と本物の入沢の関係は? 「誤読」(他人のことばを自分の都合にあわせて解釈すること)をやめれば本物の入沢になるのか? そんなことは可能なのか?
 ことばはどのことばも先行する作品(文脈)を持っている。そういうものにいっさいの影響を受けずにことばを書くことは不可能である。先行する作品(文脈)をもたないことばは、ことば足り得ない。どんなことばも先行することばを踏まえて書く。そのまま受け継ぐにしろ、批判しながら受け継ぐ、あるいはそれを拒絶して別のことばに書き換えるにしろ、そこには読むこと(聞くこと)、解釈することが含まれる。いつでも「誤読」されつづけるのである。
 「誤読」すること、「誤読」できることが本物の入沢である唯一の証拠である。

 私が書いてることは「矛盾」している。「矛盾」のかたちでしかいえないことがある。
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長田典子「また来てね」

2007-05-10 09:03:03 | 詩(雑誌・同人誌)
長田典子「また来てね」(「KO.KO.DAYS」1、2007年04月15日発行)。

今日はあたしの誕生日だそしてあたしを好きだと言ってくれる男が横にいる
いっしょにケーキの上のホワイトチョコをつまんで食べようとしたところで続きが思いつかずにからだを起こして冷たい窓におでこをあてて下を見る

 「続きが思いつかずに」。
 ふいに挿入されたそのことばの前で私は立ち止まってしまった。
 長田のこの作品は、豪華なホテルの部屋(67階)で過ごす時間を描いている。長田は、そこで次のようなことを考えていた。そして、そこにも「続きが思いつかずに」に似たことばがあった。

誰かとここに来てみたいような気がしてこの部屋を予約したのだけれどその誰かが思い浮かばないたとえば係長とか同期の子とかバイトの学生とか好みの俳優にどこか似ている男の顔を思い浮かべてみるけれど
んなわけないじゃんと声に出して笑ってしまう
あたしを抱く男たちはあたしのためにこんな高いホテルを絶対に予約しないのは分かっているしあたしだってただ気持ちよければいいんだからこんなところでやろうなんてハナから考えやしない

 「思い浮かばない」。「思い浮かばない」からこそ無理やり「思い浮かべてみる」。そして即座に、「思い浮かべ」たことを「んなわけないじゃんと声に出して笑ってしまう」。さまざまなことを思い浮かべながら、長田は「ほんとうの思い」を探していることがわかる。「ほんとうの自分」を探していることがわかる。
 だからこそ、ここでは引用しないが、たとえば浴槽に落ちた幼児の思い出を、その浴槽の中からみた光の記憶といっしょに語ったりもする。孤独。世界から孤立してしまっている記憶そのものを抱き締めるように。
 長田は、長田自身が幼児の記憶を呼び起こし、呼び起こすことで、その記憶のそばにいるように、その記憶といっしょの時間を過ごすようにして、この日、誰かといっしょにいたかった。そう願っている。
 そうした思いを、「文章」としてととのえられた形になるまえのことばで追い続ける。しかし、突然、

続きが思いつかず

 現実に引き戻される。続きが思いつかないときは、どうするのか。長田は、もう一度最初から考え直す。自分を探しはじめる。

いっしょにケーキの上のホワイトチョコをつまんで食べようとしたところで続きが思いつかずにからだを起こして冷たい窓におでこをあてて下を見る
誘われるといつも好きでもない男とやってしまうセックスが気持ちいいからじゃなくて温かい腕に抱きしめられて今この人はあたしを本当に愛してくれているんだと思える感じが好きなんだ

 往復する。「思い浮かべる」と「思いを探る(思いの深み、思いの奥を探る)」を往復する。「思い浮かべる」が自分をありえない世界へ自己を解放するのに対し、「思いを探る」は自分のこれまでの体験、記憶をたどることで、ありえない世界へ行ってしまった自己を、今、ここへ引き戻すことかもしれない。「ほんとうの自分」を探すとは、遠くへ行ってしまった自分を、今、ここへと引き戻すことかもしれない。
 浴槽に落ちた自分を思い出すようにして、男といっしょだった自分を思い出し、そのそばに寄り添い、昔の自分から、自分の声を聞き出す。「温かい腕に抱きしめられて今この人はあたしを本当に愛してくれているんだと思える感じが好きなんだ」という自分をすくい上げる。そうやって自分に帰る。

また来てね
ホワイトチョコをいっしょに食べた男が言ってくれた気がして振り向く

 「また来てね」の「また」。「また」は往復に通じる。
 長田は「また」をこそ実感したいと思っているのだろう。往復、繰り返し、そういうことのなかでたしかになってゆくものがある。「また」を手に入れて、長田は、自分へ帰る。そうして実際にひとりでホテルの部屋を出て行く。

 これが長田の「続き」の続け方である。

 詩作品としてはすっきりしていない。きのう読んだ渡辺玄英「セカイが終わりに近づくと」に比べると、渡辺の作品がことばがことばとして独立し、すっきりしているのに対し、長田のことばはことばになる前の躓きをたくさんかかえている。だが、その躓きのひとつひとつが、今つまずかなければならないという不思議な不気味さをもっている。正直さをもっている。躓いて、そこから立ち上がる不格好さと痛さのようなものが、躓いてすり切れた膝の傷のように見え隠れして、思わず立ち止まってしまう。

 この「続き」をずっと「続け」て欲しいと思う。奇妙ないい方になるが、「続きが思いつかず」をずっと丁寧に書き続けてほしいと思う。

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