監督 ピーター・ネス 出演 ジョシュ・ハートネット、ラダ・ミッチェル
アスペルガー症候群の二人の恋の物語。だが、描かれているのは彼らの特別な事情ではない。恋愛の共通問題だ。
恋愛は誰にとっても重要な問題であり、そこに気にかけることは誰もが同じである。相手が自分を愛してくれているか、相手に対して何ができるか。そういう本人同士の問題以外にひとつ重要なことがある。自分自身の周囲にいる人間(家族、あるいは仕事の同僚、友人)が自分の愛している人間をどう見るか。自分が愛している相手を、彼らは受け入れてくれるだろうか。そして、この問題がやっかいなのは、愛されている人間にとっては、愛してくれている人の周囲にいる人間が自分を受け入れてくれるかどうかなんてどうでもいいじゃないか、ほんとうに自分を愛してくれるなら、自分のためにまわりの人と戦って、自分を守ってほしい、という気持ちを呼び覚ますことだ。
男が会社の上司を夕食に招く。そのシーンに、この問題が丁寧に描かれている。上司は二人がアスペルガー症候群であることを知っている。知っていることを知りながら、二人はやはり上司の目を気にする。どう受け入れられるかを気にする。自分の気持ちをどう表現すれば夕食という場の空気を壊さずに会話できるかを気にする。そして気にすれば気にするほど、場の空気を壊すようなことになってしまう。そして、二人とも、相手はほんとうに自分を愛してくれているのか、愛してくれているなら、なぜこんなことになってしまうのか、と怒りだす。
ここで浮き彫りにされるのは、それぞれの人間の純粋さである。
二人とも、二人の愛には直接関係のない上司に自分の気持ちを傷つけられたくないという思いがある。女は絵が好きだ。上司が絵について何か語る。そのことばが女の心を、純粋な絵を愛する気持ちを踏みにじる。踏みにじられたように感じ、女は反発する。怒りをおさえられない。それは女がアスペルガー症候群だからではなく、絵を愛するこころが純粋すぎるからだ。男は男で、女との生活を維持するためには仕事を手放すわけにはいかない。女を愛しているから仕事をうまくやりたいと思っているのに、そのこころも知らずに女は自分の主張だけをしていると感じる。怒りをおさえきれなくなる。ふたりとも、場をとりつくろうということができない。純粋であるがゆえに、自分をごまかすことができない。(男は、自分自身をごまかすというか、怒りや興奮をおさえるために「数字」にのめりこむが、そうやって得られる平穏さは一瞬のことだ。)
この純粋な悲しみ、苦悩。それが非常にくっきりと描かれる。こういう純粋な映画を見ていると、監督がアスペルガー症候群の恋愛を題材にしたのは、人間の、恋愛のときのこころの悲しみ、苦悩、よろこびを、より純粋な形で表したかったからだとさえ感じる。
アスペルガー症候群は障害ではない。少しだけ不器用なのだ。その不器用さとは、自分自身をごまかすことができない、自分の感情に対して嘘をつくことができない、という不器用さだ。純粋さゆえに、ふたりは苦しむのだ。
主演のふたりは、そういう純粋さを、はらはらどきどきさせる形で具現化していた。こんなにはらはらどきどきする恋愛映画は初めてだ。特にラダ・ミッチェルの感情の起伏が透明で美しい。その透明な感情の美しさをとおして永遠が見える。そんな気持ちになる映画だ。
アスペルガー症候群の二人の恋の物語。だが、描かれているのは彼らの特別な事情ではない。恋愛の共通問題だ。
恋愛は誰にとっても重要な問題であり、そこに気にかけることは誰もが同じである。相手が自分を愛してくれているか、相手に対して何ができるか。そういう本人同士の問題以外にひとつ重要なことがある。自分自身の周囲にいる人間(家族、あるいは仕事の同僚、友人)が自分の愛している人間をどう見るか。自分が愛している相手を、彼らは受け入れてくれるだろうか。そして、この問題がやっかいなのは、愛されている人間にとっては、愛してくれている人の周囲にいる人間が自分を受け入れてくれるかどうかなんてどうでもいいじゃないか、ほんとうに自分を愛してくれるなら、自分のためにまわりの人と戦って、自分を守ってほしい、という気持ちを呼び覚ますことだ。
男が会社の上司を夕食に招く。そのシーンに、この問題が丁寧に描かれている。上司は二人がアスペルガー症候群であることを知っている。知っていることを知りながら、二人はやはり上司の目を気にする。どう受け入れられるかを気にする。自分の気持ちをどう表現すれば夕食という場の空気を壊さずに会話できるかを気にする。そして気にすれば気にするほど、場の空気を壊すようなことになってしまう。そして、二人とも、相手はほんとうに自分を愛してくれているのか、愛してくれているなら、なぜこんなことになってしまうのか、と怒りだす。
ここで浮き彫りにされるのは、それぞれの人間の純粋さである。
二人とも、二人の愛には直接関係のない上司に自分の気持ちを傷つけられたくないという思いがある。女は絵が好きだ。上司が絵について何か語る。そのことばが女の心を、純粋な絵を愛する気持ちを踏みにじる。踏みにじられたように感じ、女は反発する。怒りをおさえられない。それは女がアスペルガー症候群だからではなく、絵を愛するこころが純粋すぎるからだ。男は男で、女との生活を維持するためには仕事を手放すわけにはいかない。女を愛しているから仕事をうまくやりたいと思っているのに、そのこころも知らずに女は自分の主張だけをしていると感じる。怒りをおさえきれなくなる。ふたりとも、場をとりつくろうということができない。純粋であるがゆえに、自分をごまかすことができない。(男は、自分自身をごまかすというか、怒りや興奮をおさえるために「数字」にのめりこむが、そうやって得られる平穏さは一瞬のことだ。)
この純粋な悲しみ、苦悩。それが非常にくっきりと描かれる。こういう純粋な映画を見ていると、監督がアスペルガー症候群の恋愛を題材にしたのは、人間の、恋愛のときのこころの悲しみ、苦悩、よろこびを、より純粋な形で表したかったからだとさえ感じる。
アスペルガー症候群は障害ではない。少しだけ不器用なのだ。その不器用さとは、自分自身をごまかすことができない、自分の感情に対して嘘をつくことができない、という不器用さだ。純粋さゆえに、ふたりは苦しむのだ。
主演のふたりは、そういう純粋さを、はらはらどきどきさせる形で具現化していた。こんなにはらはらどきどきする恋愛映画は初めてだ。特にラダ・ミッチェルの感情の起伏が透明で美しい。その透明な感情の美しさをとおして永遠が見える。そんな気持ちになる映画だ。