詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鳴海宥「渋滞マニア」

2007-05-25 15:11:38 | 詩(雑誌・同人誌)
 鳴海宥「渋滞マニア」(「カラ」4、2007年05月01日発行)。
 渋滞が気分的に爽快なものではないことは誰にも共通した感覚だろう。しかし、この渋滞を「いいね」と肯定している。

このクルマは口止め料も請求せず
従卒のように 濃霧のように黙っている
いいね・・
そうやって 遠慮なく
わたしを わるくわるく わるくわるく
無穹動に 無限定に 無頓着に
そしてもっとも無頓着な あそこに
宅配しておくれ

いいねいいねいいね・・・
わるいわたしが本当だ
わたしの渋滞は
脈打っている
わたしの渋滞はわたしの血管だ 内蔵だ 鼻腔だ
大脳辺縁系だ
だからこの道は
晴れやかだとおもしろくない
道は わたしの一部のように 内蔵が損壊している
  (谷内注・本文中2か所の「内蔵」は「内臓」の誤植と思われる)

 「いいね」はもちろん反語である。「わるくわるく」と繰り返される「わたし」のなかなの「渋滞」(血栓による血流の渋滞だろうか、閉塞による腸の渋滞だろうか)との「和解」がこころみられている。
 外界の肉体化、ではなく、肉体の外界化。
 などということを考えもするのだが、私の思考(嗜好? 指向?)は激しくずれていってしまうのである。
鳴海の「いいね」と「わるく」は一対になって、「いいね」と「わるく」を超越して世界全体に、宇宙全体に拡大する。みわけがつかなくなる。そのみわけのつかないことをとりあえず「和解」と呼んでみたのだが、「受諾」「受領」「受け入れ」と呼んだ方がいいかもしれない。いや、いっそう「超越」がよかったかな……、と考え、そして。

道は世界ではないが
世界のあらゆるでっぱりと
くぼみにだけは まだ つうじている・・
だからわたしはまだまだ渋滞マニア
このまだまだを 飲み終わるまで

 これって、セックスの詩、性交の最中の詩じゃないんだろうか。
 こういう詩については、ただセックスの詩だと感じた、とだけ書けば批評になるだろうな、と思うので、これ以上書かない。
 引用は一部なので、ぜひ全編を「カラ」でご確認ください。そして、くすくすとお笑いください。わたしは、くすくす、あはは、わっはっは、と笑いが止まらなくなりました。

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入沢康夫と「誤読」(メモ29)

2007-05-25 14:20:56 | 詩集
 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「第六のエスキス」では「第五のエスキス」の「あなたたち」は「あなた」に、「私」は「私たち」に変わる。「一」の冒頭。

あなたに追はれる(あるひはあなたを迎へる)私たちの長
旅のなかばで、つひにとり戻すすすべもなく失はれた私た
ちの真の役割。

 「私たち」とは何だろうか。なぜ「かつて座亜謙什と名乗った人」は複数になるのか。手がかりが「二」の冒頭にある。

あなたは終始踏み迷ふ、私たちの作つたフローチャートの
上で。

 「第五」の「地質図」が「フローチャート」にかわっている。「フローチャート」とは生産工程の一覧表、手順図のことだろうか。第一稿、第二稿、第三稿、第四稿……、と順番にならべたもののことだろうか。「校異」に踏み迷うだけではなく、どれが「第一稿」手あり、どれが「第二稿」、どれが「最終稿」かも迷うとということだろう。
 「私たち」の「たち」、その複数形は、第一稿、第二稿、第三稿、第四稿……、という原稿の複数の存在をあらわしている。「たち」と複数ではあっても、「かつて座亜謙什と名乗った人」はほんとうはひとりであり、複数を追うのは、「ひとり」をより鮮明に把握するためである。
 そしてこのとき「ひとり」は、どれが「最終稿」であるかを特定したときに「ひとり」の姿が鮮明になるのかというと、そうではない、ということが問題として残る。「最終稿」にとだりつくために「作者」が訂正、加筆、削除を繰り返した、そのことばの乱れ、ひとつに修正しようとする姿勢そのものが「ひとり」の全体像であり、その過程を省いてしまえば「ひとり」の人間のある一面を見たことにしかならない。
 「踏み迷ふ」。迷わないことが「正しい読み」につながるのではなく、迷うこと、迷いながら「誤読」を繰り返すこと--そこにこそ「正しい読み」が潜んでいる。「誤読」こそが「正しい読み」であるということもありうるのだ。「誤読」抜きではつかみとれないものがあるのだ。

 「かつて座亜謙什と名乗った人」を追う詩、この作品は、また、入沢の詩と読者との関係にもなる。入沢のこの詩集の複数のバリエーション。そのなかでどれが「最終稿」なのか、どれが「第一稿」なのか。数がさかのぼるほど「初稿」に近付くのか。逆に、それは「初稿」から遠ざかるのか。数が増えるほど「草稿」が捏造されているのではないのか。そういう疑問が、常に私の頭にはつきまとっている。校異が増えれば増えるほど、「エスキス」が「最終稿」であると同時に「第一稿」という印象が強まる。他の部分は「エスキス」のあとに捏造された、架空の「過去」という感じがする。
 なぜ「過去」を捏造する必要があるか。
 「テキスト」のなかで読者は「踏み迷」わなければならない。迷い、「誤読」しないことには、読者自身が自分の読みたいものを発見できないからだ。読者自身が自分の読みたいものを発見し、その発見を作品に託すとき、作品は読者とともに生きるのである。「思い入れ」を省いた「科学」のなかには、文学のいのち、ことばのいのちは存在しない。「誤読」の「誤」の部分に、ことばを引き継いでゆくエネルギー、ことばを育ててゆくエネルギーがある。

 ことばは、そうやって「誤読」で引き継がれてきた。
 だからこそ、その「誤読」の過程をたどり直す、ほんとうに作者が言いたかったことは何なのか、「フローチャート」を克明に分析し、たどり直すのは、「誤読」を修正するためである。ただし、修正するといっても「正しい理解」をするためではなく、いま、ここで流布している「誤読」から自分自身の目を洗い直すためである。
 他人の「誤読」、「私たち」の「誤読」ではなく、「私」オリジナルの「誤読」をもとめる--それが、この作品のテーマだろう。



 「エスキス」が「最終稿」であり、また「第一稿」あり、数が増えるにしたがっての「エスキス」は次々に捏造された架空の草稿である--というのが私の考えだが、もちろん、その証拠はない。
 ただし、とても不思議なことがひとつある。
 「かつて座亜謙什と名乗った人」の残したとされる「作品」の数が違っている。「第五のエスキス」では「千百七十八枚の紙を連ねて作られた白い道」。「第六のエスキス」では「千九百七十一枚の黄色い紙を綴り合はせた細い道」。そして「第八のエスキス」、「第六」から「第七」(詩集にはそれ自体の形では存在しない)の「校異」を「フローチャート」にしたものには「千九百七十一枚の黄色い紙を綴り合はせた細い道」。
 この「第八のエスキス」には「あなた→私たち」という主語の変化、追うものと追われるものの転換を書いているにもかかわらず「千九百七十八枚」と「千九百七十一枚」の違いには触れていない。ここに、この作品の誕生の秘密が隠されている。

 「エスキス」の最初の発表年を私は正確には知らない。「1971年」に『倖せ それとも不倖せ 続』が発行され、1977年に『「月」そのほかの詩』が発行されている。「エスキス」は1977年の詩集のなかに含まれている。1977年以前の作品、おそらく1971年に書かれたものであると思う。
 そして『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』は「1978年」の発行である。これは1971年に「第一稿」があり、それを1978年までに「校異」を捏造する形でつくったということを読者に知らせるための「暗号」のようなものだろう。
 「九連の散文詩」といいながら「八」の部分は欠落し、詩集では「第八のエスキス」が存在する。この複雑な暗号(暗号があることを知らせる暗号)のような部分に、問題の「千九百七十一枚」「千九百七十八枚」が出てくる。しかも「校異」には触れずに。

 これは私の「誤読」か。
 たしかに「誤読」なのである。私の推測が正しかろうが間違っていようが、それは問題ではなく、私は、入沢が「1971年」に書いた「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」を出発点に、1978年までかけて詩集を完成させたと読みたいのである。



 「かつて座亜謙什と/名乗った人への/九連の散文詩(エスキス)」が発表された正確な年代、および初出誌をご存じの方がいましたら教えてください。

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