建畠晢「死語のレッスン」(「現代詩手帖」06月号、2007年06月01日発行)。
連作。その第1作「風の序列」の第1連。
建畠が「序」に書いているように、「回転木馬」も「野を渡る風」も「時代の中から忽然として消え去ってしまった言葉」だと、私も思う。ただし、こんなふうに思うのは、たぶん建畠と私の年代が近いからだろう。ある世代の人間は「回転木馬」や「野を渡る風」ということばで何かの夢を見た。その夢はたしかに、いま、ここに再現しても、新しい夢にはならない。かつてこういうことばで夢みることができた、ということがあきらかになるだけだ。
それでも、建畠は、そういうことばをつかう。
この抒情は手ごわい。
もうそんな夢は存在しないという夢ほど始末に困る(?)夢はない。
修飾語のない「少女」ではなく「未熟な」によって強調された「少女」。その「未熟な」にこめられた強い夢。「娼婦」と比較するとき、「少女」は「未熟」ゆえに「娼婦」を凌駕する。「娼婦」に敗れながら、敗れることができるという力で「娼婦」を凌駕する。敗れるものだけが正しいのだという夢、抒情。そこにも、やはりかつての「時代」の「夢」が潜んでいる。
この夢は、もう一度形をかえて、念押しをする。
「死語」と念押しすることで「少女」は「娼婦」を超越する。「死」、その絶対的敗北を利用して、「娼婦」を超越し、「老兵たちの緩慢な欲望」を超越する。
途中に差し挟まれた「そう、」ということば。それは第1連の「野を渡る風の序列のように、だ」の「、だ」と同じ呼吸である。
ここにあるのは、呼吸の抒情と言い換えることができるかもしれない。
意味は消え去り、夢が消え去っても、呼吸が残る。呼吸は人間を生かしている力である。ことばが死んでも、呼吸が死ぬことはない、ということかもしれない。呼吸は、すっと何者かに変化して生き続ける。
最後の3行。その何かひそむ呼吸のゆらぎ。
とても美しい、と同世代の私は思う。若い世代の読者が、あるいは老いた世代の読者がどう思うかは、ちょっとわからないが。
連作。その第1作「風の序列」の第1連。
どこまで駆けていっても
誰一人、追い抜くことはなかった
回転木馬のように、ではない
野を渡る風の序列のように、だ
建畠が「序」に書いているように、「回転木馬」も「野を渡る風」も「時代の中から忽然として消え去ってしまった言葉」だと、私も思う。ただし、こんなふうに思うのは、たぶん建畠と私の年代が近いからだろう。ある世代の人間は「回転木馬」や「野を渡る風」ということばで何かの夢を見た。その夢はたしかに、いま、ここに再現しても、新しい夢にはならない。かつてこういうことばで夢みることができた、ということがあきらかになるだけだ。
それでも、建畠は、そういうことばをつかう。
この抒情は手ごわい。
もうそんな夢は存在しないという夢ほど始末に困る(?)夢はない。
さらに戦えばいいと
草原の未熟な少女はいった
過酷な夢を追う娼婦のようなものだ
共に駆け、共に倒れる
それでも風の序列はかわらない
修飾語のない「少女」ではなく「未熟な」によって強調された「少女」。その「未熟な」にこめられた強い夢。「娼婦」と比較するとき、「少女」は「未熟」ゆえに「娼婦」を凌駕する。「娼婦」に敗れながら、敗れることができるという力で「娼婦」を凌駕する。敗れるものだけが正しいのだという夢、抒情。そこにも、やはりかつての「時代」の「夢」が潜んでいる。
この夢は、もう一度形をかえて、念押しをする。
戦いを唆した昼の少女は
薄暮の老兵たちの緩慢な欲望の陰で
影絵のように
汚れた旗を束ね、古い貨幣に紐を通す
少女は、そう、この日もまた
幼い死語の娼婦になるのだ
影絵のように黙した
死語の娼婦に
「死語」と念押しすることで「少女」は「娼婦」を超越する。「死」、その絶対的敗北を利用して、「娼婦」を超越し、「老兵たちの緩慢な欲望」を超越する。
途中に差し挟まれた「そう、」ということば。それは第1連の「野を渡る風の序列のように、だ」の「、だ」と同じ呼吸である。
ここにあるのは、呼吸の抒情と言い換えることができるかもしれない。
意味は消え去り、夢が消え去っても、呼吸が残る。呼吸は人間を生かしている力である。ことばが死んでも、呼吸が死ぬことはない、ということかもしれない。呼吸は、すっと何者かに変化して生き続ける。
最後の3行。その何かひそむ呼吸のゆらぎ。
誰一人、追い抜きはしなかった
回転木馬のように、ではない
野を渡る草の波のように、だ
とても美しい、と同世代の私は思う。若い世代の読者が、あるいは老いた世代の読者がどう思うかは、ちょっとわからないが。