詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

建畠晢「死語のレッスン」

2007-05-31 15:13:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 建畠晢「死語のレッスン」(「現代詩手帖」06月号、2007年06月01日発行)。
 連作。その第1作「風の序列」の第1連。

どこまで駆けていっても
誰一人、追い抜くことはなかった
回転木馬のように、ではない
野を渡る風の序列のように、だ

 建畠が「序」に書いているように、「回転木馬」も「野を渡る風」も「時代の中から忽然として消え去ってしまった言葉」だと、私も思う。ただし、こんなふうに思うのは、たぶん建畠と私の年代が近いからだろう。ある世代の人間は「回転木馬」や「野を渡る風」ということばで何かの夢を見た。その夢はたしかに、いま、ここに再現しても、新しい夢にはならない。かつてこういうことばで夢みることができた、ということがあきらかになるだけだ。
 それでも、建畠は、そういうことばをつかう。
 この抒情は手ごわい。
 もうそんな夢は存在しないという夢ほど始末に困る(?)夢はない。

さらに戦えばいいと
草原の未熟な少女はいった
過酷な夢を追う娼婦のようなものだ
共に駆け、共に倒れる
それでも風の序列はかわらない

 修飾語のない「少女」ではなく「未熟な」によって強調された「少女」。その「未熟な」にこめられた強い夢。「娼婦」と比較するとき、「少女」は「未熟」ゆえに「娼婦」を凌駕する。「娼婦」に敗れながら、敗れることができるという力で「娼婦」を凌駕する。敗れるものだけが正しいのだという夢、抒情。そこにも、やはりかつての「時代」の「夢」が潜んでいる。
 この夢は、もう一度形をかえて、念押しをする。

戦いを唆した昼の少女は
薄暮の老兵たちの緩慢な欲望の陰で
影絵のように
汚れた旗を束ね、古い貨幣に紐を通す
少女は、そう、この日もまた
幼い死語の娼婦になるのだ
影絵のように黙した
死語の娼婦に

 「死語」と念押しすることで「少女」は「娼婦」を超越する。「死」、その絶対的敗北を利用して、「娼婦」を超越し、「老兵たちの緩慢な欲望」を超越する。
 途中に差し挟まれた「そう、」ということば。それは第1連の「野を渡る風の序列のように、だ」の「、だ」と同じ呼吸である。
 ここにあるのは、呼吸の抒情と言い換えることができるかもしれない。
 意味は消え去り、夢が消え去っても、呼吸が残る。呼吸は人間を生かしている力である。ことばが死んでも、呼吸が死ぬことはない、ということかもしれない。呼吸は、すっと何者かに変化して生き続ける。
 最後の3行。その何かひそむ呼吸のゆらぎ。

誰一人、追い抜きはしなかった
回転木馬のように、ではない
野を渡る草の波のように、だ

 とても美しい、と同世代の私は思う。若い世代の読者が、あるいは老いた世代の読者がどう思うかは、ちょっとわからないが。

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入沢康夫と「誤読」(メモ33)

2007-05-31 14:42:02 | 詩集
 入沢康夫『駱駝譜』(1981年)。
 「泡尻鴎斎といふ男」(谷内注・「鴎斎」は原文は正字体)よりもさらに作為に満ちているのが「熊野へ参らむと--大岡信に」、「蟻の熊野・蟻の門渡り--すべてが引用からなる本文と、註と、付記による小レクイエム」である。
 前者と後者の関係は、後者の「付記」に次のように書かれている。

 「引用による本文」と「註」からなる本篇の構成と配列の根拠を成すものは、前出「熊野へ参らむと--大岡信に」である。

 この創作過程はとても奇妙である。『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』のように、まず「完成品」があって、それから「完成品」ができあがるまでを「捏造」していったような形になっている。
 あらゆることばは出典(本歌)を持っている。出典をもたないことばなど、どこにもない。ことばは、他人が話しているのを聞いて覚える。他人がつかっていることばのなかへ、他人のことばをつかって参加していくという以外に、ことばの使用方法はないからである。
 「熊野へ参らむと--大岡信に」の第1行、

枯あらす 枯らす

 と入沢が書いたとき、彼の意識に

かぁらす、鴉、勘三郎。
あの山火事だ。    (童謡)

 がふとよぎったとしても、それをわざわざ「出典」という必要はないだろう。あることばを思い付いたとき、そのことばがどこからきているかを、わざわざ克明に説明する必要はないだろう。
 というよりも、そんなことが人間にできるだろうか。
 たしかに、いま引用した「童謡」の類なら、まだ、「出典」を即座に明記できるだろうけれど、ある本のなかからインスピレーションを受けている、それはこの部分であるということをひとつひとつ克明に明示することは、大変な困難をともなう。
 入沢は「古事記」「日本書紀」「梁塵秘抄」などから、その箇所をひとつひとつあげているのだが、こうした「引用」箇所をひとつひとつ数え上げ、抜き出すという作業は、私には労力の無駄としか思えない。読者が、あ、これはもしかしたら「古事記」を踏まえているのだな、あの部分だな、と思えばそれで十分なことであって、入沢がいまつかったことばが「古事記」に準拠しているなどといちいち考えても、何も理解したことにはならないだろう。
 「引用」のなかには、たとえば

唐辛子、羽をつければ赤蜻蛉。(出所忘失)

 というようなものもある。1970年代、歌謡曲、コマーシャルソングに流れていたことばだが、それはもちろん歌謡曲を歌ったひとの「オリジナル」ではない。昔からある歌である。「出所忘失」もなにも、「出所」というべきものなどないのである。
 これはたとえば、ブッセ、上田敏訳「山のあなた」の引用、出所明示も同じである。ひとの口に上って久しいものに、わざわざここから「引用」しました、と言っても無意味である。言う必要がない。
 「唐辛子」「山のあなた」の引用が、出所を言う必要がないと同様、他の引用も言う必要がない。引用と引用したことばのあいだには何の関係もない。たまたまことばがそこにあったというだけである。出典の「思想」を踏まえ、それを引き継ぎ、発展させているわけではないからだ。
 それなのに、なぜ、入沢は出所を明示しているのか。
 ことばはかけ離れた「場」、たとえば「古事記」ということばの「場」と入沢の作品ということばの「場」において、同時に存在しうるといいたいからである。関係があろうがなかろうが、同時に存在しうる。同じことばだから、その「無意識」をさぐっていけば何らかの脈絡はあるかもしれないが、そんなか細い脈絡など、「妄想」である。そこに「脈絡」を見出すのは「誤読」である。
 ことばは「出所」と無関係に存在できる。したがって、「出所」と無関係に「誤読」できる。「正しい解読」と「誤読」は同時に存在しうる。そういう可能性を、入沢はここでは証明している。その証明のためだけに書かれているのがこの作品だ。
 
 「同時」ということが、ある意味ではこの作品の重要なことがらかもしれない。
 先行する「熊野へ参らむと--大岡信に」、その「構成と配列の根拠」を示す「蟻の熊野・蟻の門渡り--すべてが引用からなる本文と、註と、付記による小レクイエム」は、前者が先に書かれ、後者があとから書かれたのではなく、たぶん同時に書かれたのである。同時でなければ、こんな詳細な「引用」の明記など不可能である。前者のことばが、その意識の奥にどんな先行作品、その作品のどの部分を踏まえているかなど、書くことは不可能である。
 不可能なものを、わざわざ別個の時間に書かれたかのように入沢は装っている。入沢は、いわば嘘をついてまで、あらゆることばは出所とは無関係に、かけ離れ「場」で「同時」に存在しうるといいたいのだ。

 そのかけ離れた「場」を結んで「誤読」するのも楽しい。あるいはかけ離れた「場」を絶対に結びつけない形で「誤読」するのも楽しい。いくつもの方向へ、入沢は読者を誘っているのだといえる。
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