詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「壺」

2007-05-29 11:46:57 | 詩(雑誌・同人誌)
 和田まさ子「壺」(「現代詩手帖」06月号、2007年06月01日発行)。
 「新人作品」の入選作。蜂飼耳が選んでいる。

あいさつにいったのに
先生は
いなかった

出てきた女は
「先生はいま 壺におなりです」
というのだ
「昨日は 石におなりでした」
ははあ 壺か
「お会いしたいですね せっかくですから」

わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であって
先生は楽しい気分なのだろう

先生は無口だった
やはり壺だから

わたしは近況を報告した
わたしは香港に行った
わたしはマンゴーが好きになった
わたしはポトスを育てている
わたしは
とつづけていいかけると
「それまで」
と壺がいった
聞いていたらしい

「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った

わたしは壺の横に座った
たとえばこんな一日が
わたしの好きな日だ

 傑作だ。「壺」は何かの象徴であるとか、何かの比喩であるとか、そういうこはいっさい言わない。なんだっていいからである。
 3連目に「想像した」ということばが出てくる。「なのだろう」ということばも出てくる。これも、表現を変えた「想像」、推測である。この想像するという精神、こころの動きがとてもスムーズである。無理がない。
 このスムーズさを支えているのは、日常のことばの確かさ、日常の人との対話の確かさ、対応の確かさである。
 2連目。

ははあ 壺か
「お会いしたいですね せっかくですから」

 こころの中で思っていることと、実際に口にすることばの落差。その落差を利用しながら、私たちは相手の反応をうかがう。反応をうかがうというところに、無意識の「想像」が働いている。そういうものを和田は無理なく引き出している。そして、そこに「対話」という「場」をつくりあげる。
 4連目も傑作だが、5連目もすばらしい。
 近況(?)報告。先生が何も言わないのでエスカレートしていく。「わたしはトポスを育てている」。この「現在形」。(それまでの「近況」は「行った」「好きになった」と過去形である。)「現在形」の次は、とうぜん「未来形」がくるはずである。
 しかし、

わたしは
とつづけていいかけると
「それまで」
と壺がいった

 「未来形」は「近況」の報告ではなく、願いの報告、実現していないことの報告、「想像」に属する。だから、それは言う前にぴしゃりとはねつけられる。「先生」が「先生」であるのは、こういう日常の対応において和田よりも「一日の長がある」ということなのだろう。
 和田の「近況報告」も一種の対応の「さぐり」のようなものである。
 だからこそ「聞いていたらしい」とこころの中で振り返る。

 1行あいて、また実際の「対話」が始まる。この1行あきは、対話の途中の「ひと呼吸」である。こういう日常のリズムも和田は正確に書きことばとして定着させている。再現している。日常の対話能力にすぐれたひとなのだろう、と思う。

 3連目の「想像」にもどる。
 最終連、「たとえば」。この「たとえば」は、それまで書いてきたことが実際にあったということよりも、和田自身が「想像」したことを意味しないだろうか。「たとえば」こんな一日が好き--と想像している。その想像を和田は書いた。想像だから「壺」が何の象徴だとか、何の比喩だとかは関係ない。純粋に、先生が「壺」になってしまっているだけなのである。

 こんなに軽々と、日常をことばに定着させることができるのは、たぶん高岡淳四以来である。和田のことばの底には強靱な散文精神がある。精神が(こころが)動いていく動きを、余分なものを排除して明確にし、鍛えてゆく力がある。--魯迅、森鴎外の精神に通じる力とやさしさがある。

コメント
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