監督 井筒和幸 出演 井坂俊哉、西島秀俊、中村ゆり
「家族」の問題に国境はない。民族の違いはない。家族の命を守るために何ができるか。そのために自分を犠牲にして生きる姿が描かれる。その家族の問題に、民族の問題が絡んでくる。
一家は在日朝鮮人。筋ジストロフィーの幼い弟がいる。弟を救うために姉は芸能界へ入る。そこで手に入れた仕事は太平洋戦争を描いたものである。男たちは家族、国のために死んでゆく。一方、一家はその戦争のために苦労した。戦争がなければ家族は日本へくることもなかった。特攻隊員を見送る娘を演じながら、姉のこころのなかに、矛盾がうずまく。
姉の父の脱走の物語と、姉が出演した映画が交錯し、その交錯がそのまま姉のこころの矛盾をあぶりだす。特攻隊員を礼賛する映画をそのまま受け入れることは彼女自身だけではなく、一家そのものの存在を否定してしまうことになる。そう気づいて彼女は在日朝鮮人であることを打ち明ける……。
ここには在日朝鮮人の苦悩がていねいに描かれている。怒りと悲しみが観客にストレートにつたわるように描かれている。戦争末期の、日本軍の徴兵をのがれ、脱走する父と、つくられる映画が交錯するシーンは、在日韓国人・朝鮮人に対して、日本軍に責任があることを明確に描き出す。日本軍が侵略戦争を起こさなければ、現在の在日朝鮮人の問題はなかったことがはっきりつたわってくる。
歴史を学ぶにはとてもいい映画だと思う。
ただし、歴史を学ぶという点を除外すると、映画の魅力としては、いささか乏しい。出演者がみんなカメラのフレームのなかで演技をしている。映画自体が、徴兵からの脱走と特攻隊の映画が交錯するという「フレーム」をもっているせいか、どうしても「フレーム」を守ろうとする意識が働くのだと思うが、フレームをはみだしてゆくものがない。
観客は確かにスクリーンをみつめる。スクリーンのなかで起きていることをみつめる。しかし、実際はフレームの外も見ている。スクリーンに映っていない部分でも人は生きていて、生活している。動いている。それがつたわってこない。冒頭の列車内での国粋主義の大学生と在日朝鮮人の乱闘もフレームの中だけである。まわりで撮影している、カメラに映っている部分だけ、乱闘している。派手な肉体の動きは見えてくるが、こころが見えない。
唯一の例外は、ごみ出しされた百科事典などを在日朝鮮人が回収し、それを警官がとがめるシーン。警官が暴言をはき、それに対して在日朝鮮人といっしょに行動している国鉄マンが問責する。そこには国鉄マンの、スクリーンではそれまで紹介されなかった過去が噴出する。誰もが過去をもっている。過去の視点があって、現在をみつめているということがはっきり描かれている。
こうした描写が、脱走する父の姿としてではなく、いま生きている一家の肉体として描かれれば、この映画はとてもすばらしいものになっただろうと思う。一家の肉体のなかに噴出してくる過去があまりにも少なすぎた。脱走兵の父に頼りすぎた。クライマックスの過去と映画の交錯というフレームに頼りすぎた、という感じだ。
「家族」の問題に国境はない。民族の違いはない。家族の命を守るために何ができるか。そのために自分を犠牲にして生きる姿が描かれる。その家族の問題に、民族の問題が絡んでくる。
一家は在日朝鮮人。筋ジストロフィーの幼い弟がいる。弟を救うために姉は芸能界へ入る。そこで手に入れた仕事は太平洋戦争を描いたものである。男たちは家族、国のために死んでゆく。一方、一家はその戦争のために苦労した。戦争がなければ家族は日本へくることもなかった。特攻隊員を見送る娘を演じながら、姉のこころのなかに、矛盾がうずまく。
姉の父の脱走の物語と、姉が出演した映画が交錯し、その交錯がそのまま姉のこころの矛盾をあぶりだす。特攻隊員を礼賛する映画をそのまま受け入れることは彼女自身だけではなく、一家そのものの存在を否定してしまうことになる。そう気づいて彼女は在日朝鮮人であることを打ち明ける……。
ここには在日朝鮮人の苦悩がていねいに描かれている。怒りと悲しみが観客にストレートにつたわるように描かれている。戦争末期の、日本軍の徴兵をのがれ、脱走する父と、つくられる映画が交錯するシーンは、在日韓国人・朝鮮人に対して、日本軍に責任があることを明確に描き出す。日本軍が侵略戦争を起こさなければ、現在の在日朝鮮人の問題はなかったことがはっきりつたわってくる。
歴史を学ぶにはとてもいい映画だと思う。
ただし、歴史を学ぶという点を除外すると、映画の魅力としては、いささか乏しい。出演者がみんなカメラのフレームのなかで演技をしている。映画自体が、徴兵からの脱走と特攻隊の映画が交錯するという「フレーム」をもっているせいか、どうしても「フレーム」を守ろうとする意識が働くのだと思うが、フレームをはみだしてゆくものがない。
観客は確かにスクリーンをみつめる。スクリーンのなかで起きていることをみつめる。しかし、実際はフレームの外も見ている。スクリーンに映っていない部分でも人は生きていて、生活している。動いている。それがつたわってこない。冒頭の列車内での国粋主義の大学生と在日朝鮮人の乱闘もフレームの中だけである。まわりで撮影している、カメラに映っている部分だけ、乱闘している。派手な肉体の動きは見えてくるが、こころが見えない。
唯一の例外は、ごみ出しされた百科事典などを在日朝鮮人が回収し、それを警官がとがめるシーン。警官が暴言をはき、それに対して在日朝鮮人といっしょに行動している国鉄マンが問責する。そこには国鉄マンの、スクリーンではそれまで紹介されなかった過去が噴出する。誰もが過去をもっている。過去の視点があって、現在をみつめているということがはっきり描かれている。
こうした描写が、脱走する父の姿としてではなく、いま生きている一家の肉体として描かれれば、この映画はとてもすばらしいものになっただろうと思う。一家の肉体のなかに噴出してくる過去があまりにも少なすぎた。脱走兵の父に頼りすぎた。クライマックスの過去と映画の交錯というフレームに頼りすぎた、という感じだ。