詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井筒和幸監督「パッチギ!LOVE&PEACE 」

2007-05-30 14:41:16 | 映画
監督 井筒和幸 出演 井坂俊哉、西島秀俊、中村ゆり

 「家族」の問題に国境はない。民族の違いはない。家族の命を守るために何ができるか。そのために自分を犠牲にして生きる姿が描かれる。その家族の問題に、民族の問題が絡んでくる。
 一家は在日朝鮮人。筋ジストロフィーの幼い弟がいる。弟を救うために姉は芸能界へ入る。そこで手に入れた仕事は太平洋戦争を描いたものである。男たちは家族、国のために死んでゆく。一方、一家はその戦争のために苦労した。戦争がなければ家族は日本へくることもなかった。特攻隊員を見送る娘を演じながら、姉のこころのなかに、矛盾がうずまく。
 姉の父の脱走の物語と、姉が出演した映画が交錯し、その交錯がそのまま姉のこころの矛盾をあぶりだす。特攻隊員を礼賛する映画をそのまま受け入れることは彼女自身だけではなく、一家そのものの存在を否定してしまうことになる。そう気づいて彼女は在日朝鮮人であることを打ち明ける……。
 ここには在日朝鮮人の苦悩がていねいに描かれている。怒りと悲しみが観客にストレートにつたわるように描かれている。戦争末期の、日本軍の徴兵をのがれ、脱走する父と、つくられる映画が交錯するシーンは、在日韓国人・朝鮮人に対して、日本軍に責任があることを明確に描き出す。日本軍が侵略戦争を起こさなければ、現在の在日朝鮮人の問題はなかったことがはっきりつたわってくる。
 歴史を学ぶにはとてもいい映画だと思う。
 ただし、歴史を学ぶという点を除外すると、映画の魅力としては、いささか乏しい。出演者がみんなカメラのフレームのなかで演技をしている。映画自体が、徴兵からの脱走と特攻隊の映画が交錯するという「フレーム」をもっているせいか、どうしても「フレーム」を守ろうとする意識が働くのだと思うが、フレームをはみだしてゆくものがない。
 観客は確かにスクリーンをみつめる。スクリーンのなかで起きていることをみつめる。しかし、実際はフレームの外も見ている。スクリーンに映っていない部分でも人は生きていて、生活している。動いている。それがつたわってこない。冒頭の列車内での国粋主義の大学生と在日朝鮮人の乱闘もフレームの中だけである。まわりで撮影している、カメラに映っている部分だけ、乱闘している。派手な肉体の動きは見えてくるが、こころが見えない。
 唯一の例外は、ごみ出しされた百科事典などを在日朝鮮人が回収し、それを警官がとがめるシーン。警官が暴言をはき、それに対して在日朝鮮人といっしょに行動している国鉄マンが問責する。そこには国鉄マンの、スクリーンではそれまで紹介されなかった過去が噴出する。誰もが過去をもっている。過去の視点があって、現在をみつめているということがはっきり描かれている。
 こうした描写が、脱走する父の姿としてではなく、いま生きている一家の肉体として描かれれば、この映画はとてもすばらしいものになっただろうと思う。一家の肉体のなかに噴出してくる過去があまりにも少なすぎた。脱走兵の父に頼りすぎた。クライマックスの過去と映画の交錯というフレームに頼りすぎた、という感じだ。


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入沢康夫と「誤読」(メモ32)

2007-05-30 13:56:43 | 詩集
 入沢康夫『駱駝譜』(1981年)。
 入沢の詩集はどれも作為に満ちているが、この詩集も作為に満ちている。作為こそが「詩」である、と入沢が考えているからだろう。

  「泡尻鴎斎といふ男」(谷内注・「鴎斎」は原文は正字体)には「泡尻鴎斎」が「第一号」から「第七号」まで書かれているが、それが最後ではない。

 また、泡尻鴎斎といふ乞食がゐた。四辻で逆立ちをし
たまま、一しきりゲロを吐き出して死んだ。これが泡尻
鴎斎第七号なのだが、……

 それにしても、このゲロの中にだつて逆立ちした泡尻
鴎斎ののつぴきならなぬ真実の何がしかはあるのさ、と、
龍髭の葉陰で、今は亡き泡尻鴎斎第何号かが、未だ世
に出ぬ泡尻鴎斎第何号かに、訳知り顔で言ひきかせる。
     (谷内注・ルビ「乞食」に「ほいと」
            「龍髭」に「りゅうのひげ」
            「未だ」の「未」に「いま」
          字体「辻」は正字体
          傍点「このゲロ」の「この」
            「何がしか」の全文字)

 あらゆる人間が「泡尻鴎斎」である。そしてあらゆる人間が「泡尻鴎斎」である理由は、どんなものにも「真実の何がしか」があるからだ。しかし、「何がしか」というだけで、具体的には何も言わない。この特定しないことが「誤読」をひきだす。誤読」を誘う。特定されていないから、人は(読者は)、そこに何を見出してもいい。
 そして、その真実が「ゲロのなかにも真実がある」という「入れ子構造」でもかまわない。というより、そういう「入れ子構造」こそが、この場合唯一の真実かもしれない。
 その証拠は、「このゲロ」の「この」の傍点である。「この」という特定。「ゲロ」というものは誰でも吐く。誰でも吐くけれど「この」ゲロは特定されている。「泡尻鴎斎第七号」が吐いたものである。それも逆立ちをして吐いたものである。
 何を特定してゆくか、つまり何に目を向けてゆくかということだけが、「真実」と「誤読」にとっての問題なのである。

 第1連は「むかし、泡尻鴎斎といふ儒者がゐた。」で始まる。その後、泡尻鴎斎の職業(?)は変遷し、同時に、その人物の描写も変遷する。その変遷を貫いてかわらぬものがあり、そのひとつは「泡尻鴎斎」という名前。もうひとつが「泡尻鴎斎」は全員死ぬということ。死ぬことによって「第二号」「第三号」と引き継がれてゆく。
 というより、新しい「泡尻鴎斎」が勝手に「過去」を「第七号」「第六号」と逆につくりだしてゆくのだ。
 最後の「今は亡き泡尻鴎斎第何号かが、未だ世に出ぬ泡尻鴎斎第何号かに、訳知り顔で言ひきかせる。」(改行を無視して引用)は、こうした「構造」を語って、象徴的である。ここに描かれていることは、現実には絶対不可能なことである。死んでしまった人間が生まれる前の人間に何かを語り継ぐということは現実にはありえない。ところが、ことばのうえではそういうことが可能であり、それだけではなく、そのことばに対して「何がしか」の意味づけをすることもできるのである。いま、私がしたように。
 この「意味づけ」が「誤読」である。「誤読」は「誤読」したいから「誤読」という形をとって動く。
 現実にはありえない、と切って捨ててしまえば、現実には何の問題もない。しかし、そう批判してしまうと、ではなぜ入沢がそういう世界を描いたのかということについては、何の答えも出せない。それはそれでもいいのだけれど、人間は、ひとの行動(ことば)に対して何らかの「理由」(思い)を見出して安心したいものである。自分との接点を、たとえそれが自分にできないことではあっても、その接点を求めたいものなのだ。そして、そこから「誤読」が始まるのだ。

 「誤読」は古いことばになるが「自分探し」の方法なのだ。
 ひとは誰でも、ことばを読むとき、そのことばのなかに自分自身を探したいから読むのだ。自分のなかにあって、まだことばにならない自分--それを掬い出してくれることばをひとは求める。

 (これは、作者自身についても言えることかもしれない。--これは『漂ふ舟』のための、メモとして書いておく。)

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岡本勝人「続シャーロック・ホームズという名のお店」

2007-05-30 09:34:34 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡本勝人「続シャーロック・ホームズという名のお店」(「現代詩手帖」06月号、2007年06月01日発行)。
 こういうタイトルの詩は「うさんくさい」。これは、もちろん言い意味での「うさんくさい」なのだが。

昨日の朝から降った雨のためだろうか
テムズ川を流れる水は非詩的に濁っていた

 この書き出し。特に2行目の「非詩的に」の「非」。ここに「うさんくささが」集約している。詩ではない部分、「非」にこそ「詩」は存在する。「非」こそが、これからの「詩」である、というわけである。詩から除外されてきたものをことばにする。そのとき新しい「詩」がはじまる……。
 テムズ川が出てくるからというわけではないが、あ、エリオットか……と思っていると、ほんとうにエリオットが出てくる。
 詩のなかほど。

エリオットだって河岸べりの青物市場跡にたたずんで
ロンドンブリッジを眺めれば
寒さのなかでコートの襟を立てて歩き出したろうさ

 「歩き出したろうさ」の「さ」の孤立感。「わかるのだろう? 反論なんかするなよ」というような響きの、冷たさの美しさか。
 さらに自己と風景の分離、分離のなかの「不協和音」のような「調和」。(不協和音というのは「非」音楽であり、「非」こそが新しい可能性という意味では「非詩的」の「非」に通じるものをもっている。)その「不協和音」としての「調和」の孤立、寂しさの輝き……。

テムズ川の匂いがポケットからほんのりとこぼれ落ちた
夕暮れは深い闇の都市に溶けたようだった
テムズ川はこうして黙然と時間を食べたまま流れている

 「時間を食べたまま」。
 ここに、この詩の主張のすべてが集約している。「時間」は「文学」(あるいは「歴史」といった方がいいかもしれないが)と同じ意味である。
 そして、この作品も「文学」を食べて動いている。「文学」の約束事を守ってことばが動いてゆく。こんなにきちんと約束事を守られると、批判のしようがない。それが、この詩に対する、唯一可能な批判かもしれない。
 読み終わったとき、なんといえばだろうか、岡本の作品を読んだという気持ちになれない。エリオットの作品を読んだという気持ちにもなれない。何を感じるかといえば、「文学を読んだ」という、不思議な感じなのだ。

 最初に書いた「うさんくさい」は、「文学を踏み外さない」という抑制によって成り立っている、「文学」を知り尽くしていて、反論を許さないという「うさんくささ」なのである。「いい意味」で書いたが、それは「文学」を岡本が熟知している、反論を許さないほど熟知している、という意味だ。「知」に整然と磨かれ、統一されている、乱れがないという意味だ。「歩き出したろうさ」の「さ」さえ、「知」である、という意味だ。

 こういう作品を読んだあとは、猛烈に噴出してくるだけのことばを読みたくなる。

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