詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ13)

2007-05-04 14:40:24 | 詩集
 入沢康夫『季節についての試論』(1965年)。
 「季節についての試論」は次のように始まる。

季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり

 「試論」の「試」は最初から「死」と置き換えられている。「誤読」が最初から始まっている。この「誤読」は「逸脱」といっていもいいかもしれない。「事実」をつみかさねることで、その「事実」をつらぬく何か(真理)を探り当てるというよりも、ある「事実」から出発して、ことばをどこまで動かすことができるか、そしてそのときことばは何を頼りに先へ先へと突き進むのか、ということを入沢は求めている。
 ことばはどんなふうにして「事実」を踏み越えて行くのか。「事実」を土台にして飛躍するのか。

世界への帰還の許容であり

 「帰還」ということばは、たぶん季節が巡るもの、循環するものという意識と通じ合っている。帰還の「還」は循環の環でもある。そして、帰還にしろ、循環にしろ、そこには動きがある。ある方向を目指して動くことがある。
 「季節」ということばから、どんな「世界」(まだ見ぬ世界、真に存在する世界)へと入沢はことばを動かしてゆきたいと願っている。

季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり
青い猪や白い龍に殺された数知れぬ青年が 先細りの塔の向
うの広い岩棚の上にそれぞれの座をかまえて ひそかに ず
んぐりした油壷や泥人形 またとりどりの花を並べ 陽に干
していると虚しく信ずることも それならばこそ 今や全く
自由であろう

 「虚しく」と「自由」ということばが印象的だ。
 「虚しく」は「信ずる」を修飾している。「虚しく信ずる」とはその信じたことがらが事実ではないことを明らかにしている。そして、そういう事実ではないことを信じることを「自由」ということばで入沢は定義している。
 これは「誤読」を「自由」と呼んでいるに等しい。
 「誤読」は「自由」なのだ。事実を事実のまま認識するのではなく、事実から逸脱し、想像力によって事実をねじまげて行く。その先に事実は存在しないが、だからといって、その運動を支えているものが存在しないということではない。ことばは事実から出発して、事実ではないもの、いま、ここに存在しない「世界」へと入って行くことができる。そういう「世界」をつくることができる。
 その世界は「青い猪」「白い龍」、さらには「殺された数知れぬ青年」によって、すでに始まっている。何かを試みる(試論)という動き、ことばで何かを解きあかそうとする試みは、いまここに存在しない「青い猪」「白い龍」「殺された数知れぬ青年」によって始まり、つくられつつある。

                   彼らは 当然 世
界の屍臭を むしろ身にまとうに足る芳香であるとことさら
に誤認し 

 「誤認」しかも「ことさらに誤認」する。積極的な「誤認」「誤読」を入沢は肯定している。消極的なではなく、積極的な「誤認」「誤読」。そこには「科学」(理性)が見落としてきた何かがある。そしてその何かは孤立してあるのではなく、それ自体が一つの「世界」をつくっている。
 入沢は、そういう「世界」へ「帰還」しようとしている。「帰還」ということばは、そういう「世界」こそが入沢の「故郷」、帰るべき「世界」だということを示している。

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たなかあきみつ「(やおら密栓になった……)」、萩原健次郎「諦観地」

2007-05-04 11:58:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 たなかあきみつ「(やおら密栓になった……)」、萩原健次郎「諦観地」(「紙子」13、2007年04月25日発行)。

 たなかあきみつ「(やおら密栓になった……)」。
詩はことばである、というのはあたりまえの定義かもしれないが、たなかの詩を読んでいて、あらためてそう思った。「鋏で裁断された燕 ナタリー・バルネイ」というサブタイトル(? 引用?)がついているから、そのことばに触発されて書いたのだろう。そのことばが出てくる2連目。

その壁で夜来の稲妻のかかとは浮いたまま
剥がれる焦げ目は川のガーゼ
防火道路の路面に《鋏で裁断された燕》が
みずから羽括弧を殺いで横たわる、
孔雀の脳みそはいまでもヴェルヌ直伝のうまさ?

 「稲妻のかかと」。そういうものは、ない。ないけれど、ことばにした瞬間に目の前に出現する。稲妻が走るその足の一番下。とがったハイヒールのようなものを私は想像する。私の想像とたなかが描こうとしたものが一致しているかどうかは文学においては問題ではない。どんな錯覚であれ、その錯覚が目の前に姿をあらわす--その出現をもたらすことばの力そのものが文学だからである。
 
 この不思議な、幻を現実のように呼び出す力は、どこから来ているか。たなかの、それまでの文学遍歴、文学素養といってしまえばそれまでだが、ここにあるのは単にかけ離れたことばを結びつけるという行為、たとえば「稲妻」と「かかと」を結びつける行為だけではない。
 かけ離れたことばの結合がつくりだす不思議な魅力、突然のリアリティを支えるもう一つの力--たぶんたなかのほんとうの力は別のところにある。ひきずる力、なんとしてもかけ離れた存在を結びつけようとする異様な執念のようなもの、異様な願い(かなわないとわかっていてすがり続ける未練のような力)が、その底に横たわっている。かけ離れた存在を結びつけるというよりも、切断された存在を結びつけたいという願いがこもっているように感じる。まるでプラトンの作品に出てくる本来は一個の存在だったものが切断されてふたつになって、互いに片割れを探す恋愛のように。
 その執念のようなものを、私は読点「、」に感じる。

みずから羽括弧を殺いで横たわる、
孔雀の脳みそはいまでもヴェルヌ直伝のうまさ?

 この2行を2行として成立させるための「、」は何? 何のためにある?
 誰も答えられないと思う。たなかにも答えられないと思う。ここには「無意識」しかない。意識がないという意味で「無意識」というのではない。意識はあるのだが、それを意識することはできない、論理では説明できないもの、肉体の生理のようなもの、という意味での「無意識」だ。
 「、」を挟んで、(「、」によって「鋏で切断された」ように)、2行が互いに断面の結合部分を探っているかのようだ。切断されている、しかし、そこにはほんとうはつながりがあって、血もつながっていれば、神経もつながっているのだ、それを探しているのだ、という切ない苦悩が「、」なのである。ほんとうに次の行のことばとつながっているのか、それを疑いながら、なおかつつながることができるならつながりたい、一体になり、完全な存在になりたいというような、強い眼差しのようなものを感じる。
 「、」がどう使われているかをみると、そのことがもっとはっきりするかもしれない。「、」はいくつも使われているが、特徴的なことは各連の終わりの行が最後に「、」をもっているということである。
 1連目から2連目へ。

もっぱら羊歯の結び目をほどくために、

その壁で夜来の稲妻のかかとは浮いたまま

 裁断(切断)しながら、(この切断は、連と連のあいだの空白によって強調されている)、同時に句点「。」のように完全に分離するのではなく、つながることを望んでいる。なんとか連と連をつなげようとしている。そういう意識の象徴なのだ。

 3連目「歯槽の氷穴だろうと、」4連目「鏡の贈り主理容師志願のダンサーの喉をころがれ、」5連目「流れないからもちろんナハトグリュンだと、」この持続を願うことばの数々。常に何かをもとめていることばの数々。
 たなかのなかには何か裁断(分断、切断)を恐れるこころがあるのだ。それが強くなって、あるとき「稲妻のかかと」というような不思議な結合を実現する。
 その結合ある意味で、かなわぬセックスの、一瞬の陶酔のようなもののようでもある。ありえない、という印象によって、その結合がいっそう輝く。

 そんなふうに読んでくると、2連目だけ「、」ではなく「?」で終わっていることに気がつく。この「?」はほんとうの疑問符だろうか。たぶん、そうではない。口語で、「というのかな、ということばでよかったかな」という意味合いをこめて語尾を軽くあげる感じの呼吸の「?」である。そこには相手(読者)の同意を待っているこころがある。相手(読者)の同意を受けて、さらに先へとことばをつづけていこうとする意識がある。
 この相手(読者)の同意をもとめる無意識のことばの調子(語尾をあげる軽い疑問口調、断定をさけた口調)にも、接続を、合体を、せつせつと願うこころがうごめいている。

 こうした粘りっこい文体を読むと、詩はことばであるが、そのことばには必ず詩人独特の文体が反映しているということに気がつく。



 萩原健次郎「諦観地」。
 たなかの詩を読んだ後、萩原の作品を読むと、たなかが切断された恋人を探しているのに対して、萩原は合体したものを引き剥がし、空隙をつくり、呼吸しようとしているように見える。

 生える艸は、呼吸もしている。

 呼吸は「声」になる。引き離された声、分離した声がそれぞれ独立した声になるとき和声が生まれる。(もちろん、和声にならず、乱れることもある)。和声はそれまで存在しなかったものである。ふたつが一つになり出現する世界である。一つのものがふたつになり、それがもう一度ひとつのものになる。それは不思議な距離と広がりもつ。
 たなかが欲しているものと萩原が欲しているものは、まったく正反対である。
 それが「紙子」の最初と最後に掲載されている。おもしろい構造でできた同人誌である。
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