入沢康夫『季節についての試論』(1965年)。
「季節についての試論」は次のように始まる。
「試論」の「試」は最初から「死」と置き換えられている。「誤読」が最初から始まっている。この「誤読」は「逸脱」といっていもいいかもしれない。「事実」をつみかさねることで、その「事実」をつらぬく何か(真理)を探り当てるというよりも、ある「事実」から出発して、ことばをどこまで動かすことができるか、そしてそのときことばは何を頼りに先へ先へと突き進むのか、ということを入沢は求めている。
ことばはどんなふうにして「事実」を踏み越えて行くのか。「事実」を土台にして飛躍するのか。
「帰還」ということばは、たぶん季節が巡るもの、循環するものという意識と通じ合っている。帰還の「還」は循環の環でもある。そして、帰還にしろ、循環にしろ、そこには動きがある。ある方向を目指して動くことがある。
「季節」ということばから、どんな「世界」(まだ見ぬ世界、真に存在する世界)へと入沢はことばを動かしてゆきたいと願っている。
「虚しく」と「自由」ということばが印象的だ。
「虚しく」は「信ずる」を修飾している。「虚しく信ずる」とはその信じたことがらが事実ではないことを明らかにしている。そして、そういう事実ではないことを信じることを「自由」ということばで入沢は定義している。
これは「誤読」を「自由」と呼んでいるに等しい。
「誤読」は「自由」なのだ。事実を事実のまま認識するのではなく、事実から逸脱し、想像力によって事実をねじまげて行く。その先に事実は存在しないが、だからといって、その運動を支えているものが存在しないということではない。ことばは事実から出発して、事実ではないもの、いま、ここに存在しない「世界」へと入って行くことができる。そういう「世界」をつくることができる。
その世界は「青い猪」「白い龍」、さらには「殺された数知れぬ青年」によって、すでに始まっている。何かを試みる(試論)という動き、ことばで何かを解きあかそうとする試みは、いまここに存在しない「青い猪」「白い龍」「殺された数知れぬ青年」によって始まり、つくられつつある。
「誤認」しかも「ことさらに誤認」する。積極的な「誤認」「誤読」を入沢は肯定している。消極的なではなく、積極的な「誤認」「誤読」。そこには「科学」(理性)が見落としてきた何かがある。そしてその何かは孤立してあるのではなく、それ自体が一つの「世界」をつくっている。
入沢は、そういう「世界」へ「帰還」しようとしている。「帰還」ということばは、そういう「世界」こそが入沢の「故郷」、帰るべき「世界」だということを示している。
「季節についての試論」は次のように始まる。
季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり
「試論」の「試」は最初から「死」と置き換えられている。「誤読」が最初から始まっている。この「誤読」は「逸脱」といっていもいいかもしれない。「事実」をつみかさねることで、その「事実」をつらぬく何か(真理)を探り当てるというよりも、ある「事実」から出発して、ことばをどこまで動かすことができるか、そしてそのときことばは何を頼りに先へ先へと突き進むのか、ということを入沢は求めている。
ことばはどんなふうにして「事実」を踏み越えて行くのか。「事実」を土台にして飛躍するのか。
世界への帰還の許容であり
「帰還」ということばは、たぶん季節が巡るもの、循環するものという意識と通じ合っている。帰還の「還」は循環の環でもある。そして、帰還にしろ、循環にしろ、そこには動きがある。ある方向を目指して動くことがある。
「季節」ということばから、どんな「世界」(まだ見ぬ世界、真に存在する世界)へと入沢はことばを動かしてゆきたいと願っている。
季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり
青い猪や白い龍に殺された数知れぬ青年が 先細りの塔の向
うの広い岩棚の上にそれぞれの座をかまえて ひそかに ず
んぐりした油壷や泥人形 またとりどりの花を並べ 陽に干
していると虚しく信ずることも それならばこそ 今や全く
自由であろう
「虚しく」と「自由」ということばが印象的だ。
「虚しく」は「信ずる」を修飾している。「虚しく信ずる」とはその信じたことがらが事実ではないことを明らかにしている。そして、そういう事実ではないことを信じることを「自由」ということばで入沢は定義している。
これは「誤読」を「自由」と呼んでいるに等しい。
「誤読」は「自由」なのだ。事実を事実のまま認識するのではなく、事実から逸脱し、想像力によって事実をねじまげて行く。その先に事実は存在しないが、だからといって、その運動を支えているものが存在しないということではない。ことばは事実から出発して、事実ではないもの、いま、ここに存在しない「世界」へと入って行くことができる。そういう「世界」をつくることができる。
その世界は「青い猪」「白い龍」、さらには「殺された数知れぬ青年」によって、すでに始まっている。何かを試みる(試論)という動き、ことばで何かを解きあかそうとする試みは、いまここに存在しない「青い猪」「白い龍」「殺された数知れぬ青年」によって始まり、つくられつつある。
彼らは 当然 世
界の屍臭を むしろ身にまとうに足る芳香であるとことさら
に誤認し
「誤認」しかも「ことさらに誤認」する。積極的な「誤認」「誤読」を入沢は肯定している。消極的なではなく、積極的な「誤認」「誤読」。そこには「科学」(理性)が見落としてきた何かがある。そしてその何かは孤立してあるのではなく、それ自体が一つの「世界」をつくっている。
入沢は、そういう「世界」へ「帰還」しようとしている。「帰還」ということばは、そういう「世界」こそが入沢の「故郷」、帰るべき「世界」だということを示している。