詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柳玲子「夜ふけ どこかで」、樋口伸子「転居通知

2007-05-11 23:16:13 | 詩(雑誌・同人誌)
小柳玲子「夜ふけ どこかで」、樋口伸子「転居通知」(「六分儀」27、2007年04月21日発行)。

 小柳玲子「夜ふけ どこかで」には奇妙なことばが出てくる。1連目。

シタミ壁の家を曲がって といわれながら家を出た
シタミ壁はなく 長い灰色の塀に沿って きりもなく歩いた
サンマの顔をしたものが付いてきて **さんと私を呼ぶ
私は**さんではないので 黙って歩く 怖い
どうしてサンマが私に付いてくるのか 聞きたいが 止めておく

 「サンマ」が奇妙というのではない。「シタミ壁」が奇妙だと私は感じる。
 たぶん「下見板」(長い板を何枚か重ねたもの、下の板の上部が、その上の板で少し隠されるようにして、何枚か重ねることで雨水が侵入してこないようにつくられた板壁)のことを言っているのだと思う。今ではそういう板壁を見る機会は少なくなってしまった。というか、どこか古い街並みを訪ねていかないことには見ることができないかもしれない。下見板自体がなくなっているのだから「下見板」ということばももちろんつかわれなくなっている。そういうことばを冒頭に持ってきて、しかも「シタミ壁」と、わざとわからないようにして書いている。
 そして、わざと書いている、と思った瞬間から、小柳のことばの世界にさそいこまれていることを知る。「シタミ壁」と書いているけれど、それは「下見板」のこと、実際にあるもの、あったものなんですよ、と小柳はいい、そして、その実際にあるものをわざとはぐらかして書いているのだから、そのあとに出てくる不思議なことばも全部ほんとうにあるけれどわざとはぐらかして書いているものなんですよ、と主張するのである。
 「サンマ」は「シタミ壁」より身近だ。誰もが知っている魚だ。魚が人間のあとをついてくるなんてことはありえないから、これはきっと何かの「比喩」あるいは「象徴」なんだ、わざと言い換えたことばなんだ、と読者は(少なくとも私は)だまされてしまう。
 2連目以降には、やはりカタカナで「ロンゴ」(場所の名前)、「メリヨン」(画家の名前)が出て来る。こうしたことも、ほんとうにあることがらであって、それが「比喩」「象徴」として語られているのだ、とだまされてしまう。
 もっとも、これは小柳自身の願望でもあるのだろう。だまされたいのだ。何かがあると信じ込みたいのだ。何かをわかっていると思い込みたいのだ。
 最終連。

**さん さようなら といわれた
**は私の幼な名だったかもしれないが もう思い出せない
シタミ壁の家を曲がって行く時 性懲りもなく私はメリヨンの贋画を抱え
サンマでもいないよりはいたほうがよかったか と思い
もっと大事なものと いつもどこかで別れてきたのだと分かっているのだった

 何かが分かっている、それは「あれ」だろう、「シタミ壁」というのはほんとうは「下見板」のことだろう、という具合に、分かっているという感覚を小柳は書きたいのだと思う。「感覚」を「感覚」のままにしておくために、「シタミ壁」ということばが選ばれている。そして「シタミ」を引き継いで「サンマ」とか「ロンゴ」ということばが選ばれ、分かったようで分からない、分からないけれど分かったと感じる「感覚」を浮かび上がらせたいのだろ。
 この試みは成功していると思う。
 小柳の文体がしっかりしているからだ。強引な断定と不安定なこころ、そしてそのこころを分析する冷静な自己省察、たとえば「私は**さんではないので 黙って歩く 怖い」の「怖い」ということばの組み合わせが、常に、ありえない世界と小柳、ありえない世界と読者の接着剤のようにして働いているからだ。「サンマの顔をしたものが付いてきて」という世界はにわかには信じられないが、「怖い」という感覚は信じられる。そういう信じられないものと、信じられるものの結合のバランス、距離感が的確だからだ。



 「六分儀」の筆者たちはみな文体がしっかりしていて、文体の力で世界を出現させる。樋口伸子の「転居通知」もまた、しっかりした文体でできた世界だ。

この春
長かった仮住まいを終えて
川のこちらに引っ越しました
お近くまでおいでになられても
どうぞ けして
お立ち寄りにならないでください
まだ早すぎます

 引っ越し通知の定型を踏まえながら、定型とは逆のことを書く。同時に「まだ早すぎます」という「本音」をもぐりこませる。樋口の詩も、そして、「あ、これが本音」などと思った瞬間から、もう樋口ワールドにのみこまれている。これが本音と思った瞬間から、それにつづく行のなかで、本音はどれ? 何が定型? と想わず探してしまう。分析してしまう。他人のことばの意味を詮索する--それは、他人のことばにのみこまれる、ということなのだ。
 小柳も樋口も、巧妙に読者をのみこみ、にやりとしている。にやりとしながら「どう? 分かった?」と無言で問うている。そんなふうに問われると、分からなくても「うん、分かった」と見栄を張りたくなるものだ。そういうゲーム(読む楽しさ、読んでだまされ、だまされながら相手の何かを知る)が、小柳と樋口のことばにはある。


コメント
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