詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ16)

2007-05-08 15:16:17 | 詩集
 入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』(1968年)。
 Ⅱの部分に、おもしろい形式で書かれた部分がある。全体がXの字形になっている。

すでにして、           土砂降りの国
 ぼく  は出         道に、真っ赤な
  雲の  呪い       草の実の幻が
   の中  を西     なおも舞狂い、
    に走つている。  更に雨を呼び、
     フロント・ガラスがばしや
      ばしや濡れる。まるで
       天鳥舟。いや、む
        しろ、うつぼ
       舟だね、と思う間
      に、その雨があがって
     夕陽がまともに照りつける。
   (気違い天気だ) 意宇平野の北
   一匹  の犬    のはずれ、意
  が死  人の      宇の川が血み
 腕を  銜え        どろの入り海
て走っている。         に注ぐあたり、

   (ネットで表示するとXの形はくずれるで詩集で原型を確認してください。)

 この作品をどう読めばいいのだろうか。黙読では可能だけれど、音読ではこの形を伝えられない。日常会話のようにしては、この作品を読み聞かせることはできない。音読不可能な作品をなぜ入沢は書いたのだろうか。音読では伝えられないことを書きたかったからである。
 「読む」とは「音読」だけの世界ではない。「音」だけを読むのではない。
 たとえば「ぼく  は出」という部分。「黙読」というより、「視読」といった方がいいかもしれないが、目で読むとき、「ぼく  は出」の2字空きも私たちは読む。そして、そこに読み取るのは「意味」ではなく、「X字形」をつくろうとする入沢の意志である。中央部分で上下(ネットでは横書きなので、上下を左右、上を左、下を右と読み替えて読んでください)に分かれていたことばが交錯し、それは上のことばを引き継いでいるのか、下のことばを引き継いでいるのか区別がつかなくなる。上のことばも下のことばも同じものとして引き継ぎ、混ぜ合わせ、一体にしようとする入沢の意志を読み取る。そしてこのとき、私たちは気づく。読むとは、ことばを読むというより、書いた人の意志を読むことだと気づく。
 「よせあつめ 縫い合された国/出雲」、その「出雲神話」は、いま、入沢が書いた「X字形」のように交差しているのかもしれない。交差する部分を利用して、人は「出雲神話」をまとめたかもしれない。交差する部分の発見、そしてそれを起点にして全体を読み替える。「誤読」する。「替え歌」にする。--そういう操作のなかに、人間の意志、ことばを語ろうとするときの人間の思いが凝縮しているのではないか。
 この「X字形」を語っているのか、Ⅱには次のような行も出てくる。

すべてがすべてと入り混り、犯し合う、この風土を怖れていては、
望みを果たすことなど到底できない。

 「誤読」では、「すべてがすべてと入り混り、犯し合う」。どちらがどちらを犯したのかわからない。犯すことによって犯され、犯されることによって犯す。それが「誤読」だ。ことばの継承は、そんな形でおこなわれている。

 このⅡの部分には、もうひとつ興味深いことばがある。「X字形」の詩の部分と、「すべてがすべてと入り混り」の間にはさまれた部分に「うり二つ」ということばがある。うり二つとは、どちらがどちらか区別がつかないことを指す。それは「X字形」の詩の交錯した部分、上と下のことばが「入り混り、犯し合」っている部分でもある。それぞれが自分こそが本物であり、他方は偽物だということができる。
 
 そのとき「偽物」とは何だろうか。

 「偽」と「誤読」--この関係を、入沢は、この詩集で追求している。
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安英晶「水族館」、小杉元一「レクイエム」

2007-05-08 11:37:30 | 詩(雑誌・同人誌)
 安英晶「水族館」、小杉元一「レクイエム」(「ESO」12、2007年04月30日)。
 安英晶「水族館」。
 水族館で安英は魚ではなく水と向き合う。そしてその水が安英の体内の水と呼応する。

体内の水面はるか
花が散る はながちる
みずのなかを散るはなびら
さ く ら
  (の/遺伝子 の

静寂)

 「花が散る はながちる」。意味が文字に分解し、散っていく幻想が美しい。「はな」はさらに「さ」「く」「ら」と一文字ずつに分解し、散り、意味を幻想にしてしまう。その散る(下降)の動きの反作用のようにして「遺伝子」が浮かび上がってくる。

  (の/遺伝子 の

静寂)

 この部分の( )の使い方、/の使い方、1行の空白の取り方がとても美しい。「静寂」ということばを呼び出す間も、とてもいい。
 抒情詩はいいものだなあ、と、ふと思った。



 小杉元一「レクイエム」。
 書かれている状況がよくわからない。何が書いてあるのかわからないけれど、次の1行がとても印象的だ。

耳は水にほどけてゆく

 しきりに水を思いだしている。目でも指でもなく、耳が水を思いだしている。それは水の音であり、その水へとつながる様々な音でもある。
 この「音」は安英の感じた「静寂」と、どこかで通じ合っているのだろうか。



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