入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』(1962年)。
「ランゲルハンス」は膵臓内のインシュリンを分泌する組織である。「膵島」ともいう。「ランゲルハンス」と「膵島」のふたつのことばから、この詩は生まれた--と書けばなんだか簡単な謎解きみたいな感じだが、このふたつのことばのなかに「誤読」があり、その「誤読」にこそひかれて入沢は詩を書いているのだと思う。
「膵島」というけれど「ランゲルハンス」は「島」ではない。内分泌組織が膵臓のなかに散在する--その散在という形が「島」を連想させるから「膵島」とも呼ばれるのである。「島」はすでに「誤読」なのだ。ある実在の「読み替え」なのである。入沢はこういう「誤読」を拒絶しない。むしろ、そうした「誤読」を利用する。
「誤読」には、「誤読」をしたがる「心理」(あるいは心理がかかえこむ真理)というものがある。
想像力を定義して「事実を歪曲する力」というふうに言ったのはバシュラールだが、何かを歪曲し、自分にとってわかりやすいようにとらえなおすことは、また「誤読」でもある。「誤読」はいつでも自分の考えにあわせて「事実」を読み替えることである。「誤読」のなかには「事実」を超越した「心理・真理」がある。
*
「ランゲルハンス氏の島」が「膵島」と関係があることは、詩のなかでも解きあかされる。「1」のなかほどに、次のように書かれる。
「みぞおちあたり」は「膵臓」を暗示させる。「意識を失った」は糖尿病での心身を想像させる。
この詩は、糖尿病による失神--というより、失神そのものを題材にしているのだろうか。失神の一瞬に見る何か、幻影か、事実か、その両方か……その瞬間の「誤読」をことばとして定着させたいという思いが入沢にあったのか。--というような読み方は、たぶん「意味」にしばられすぎているだろう。
入沢のこの作品のことばは「意味」の重さを否定している。軽々と動いている。
この作品で入沢がやりたかったのは「意味」とは対極にある世界を描くことだろうと思う。
「ランゲルハンス氏」は架空の人物である。「島」も架空である。あるいは「誤読」された存在である。実在しない。
実在しないものを出発点として、ことばはどこまで動いてゆくことができる。実在を、あるいは事実を拒否して、詩は成立するか。そういうことを試したかったのではないか、と私は想像する。事実を拒否するために、あえて事実を暗示させる。たとえば「ランゲルハンス」という名前。あるいは「島」。「ランゲルハンス」+「島」ということばに出会えば、だれもが「膵島」を思い浮かべる。あるいは糖尿病を、あるいはインシュリンを、あるいは失神を。そういう現実にあるもの(事実)を暗示させた上で、その事実からどれだけ遠くへことばを動かすことができるか。ことばは、どこまで自由でいられるか。そういうことを実験しようとしているように思える。
入沢にとって、詩とは、ことばの実験なのだ。ことばの可能性なのだ。
「ランゲルハンス」は膵臓内のインシュリンを分泌する組織である。「膵島」ともいう。「ランゲルハンス」と「膵島」のふたつのことばから、この詩は生まれた--と書けばなんだか簡単な謎解きみたいな感じだが、このふたつのことばのなかに「誤読」があり、その「誤読」にこそひかれて入沢は詩を書いているのだと思う。
「膵島」というけれど「ランゲルハンス」は「島」ではない。内分泌組織が膵臓のなかに散在する--その散在という形が「島」を連想させるから「膵島」とも呼ばれるのである。「島」はすでに「誤読」なのだ。ある実在の「読み替え」なのである。入沢はこういう「誤読」を拒絶しない。むしろ、そうした「誤読」を利用する。
「誤読」には、「誤読」をしたがる「心理」(あるいは心理がかかえこむ真理)というものがある。
想像力を定義して「事実を歪曲する力」というふうに言ったのはバシュラールだが、何かを歪曲し、自分にとってわかりやすいようにとらえなおすことは、また「誤読」でもある。「誤読」はいつでも自分の考えにあわせて「事実」を読み替えることである。「誤読」のなかには「事実」を超越した「心理・真理」がある。
*
「ランゲルハンス氏の島」が「膵島」と関係があることは、詩のなかでも解きあかされる。「1」のなかほどに、次のように書かれる。
ちょっと考えるふりをしてから「よろしい。参ることにしましょう」とそう言った時、僕はいきなりみぞおちあたりにはげしい痛みを感じて意識を失った。
「みぞおちあたり」は「膵臓」を暗示させる。「意識を失った」は糖尿病での心身を想像させる。
この詩は、糖尿病による失神--というより、失神そのものを題材にしているのだろうか。失神の一瞬に見る何か、幻影か、事実か、その両方か……その瞬間の「誤読」をことばとして定着させたいという思いが入沢にあったのか。--というような読み方は、たぶん「意味」にしばられすぎているだろう。
入沢のこの作品のことばは「意味」の重さを否定している。軽々と動いている。
この作品で入沢がやりたかったのは「意味」とは対極にある世界を描くことだろうと思う。
「ランゲルハンス氏」は架空の人物である。「島」も架空である。あるいは「誤読」された存在である。実在しない。
実在しないものを出発点として、ことばはどこまで動いてゆくことができる。実在を、あるいは事実を拒否して、詩は成立するか。そういうことを試したかったのではないか、と私は想像する。事実を拒否するために、あえて事実を暗示させる。たとえば「ランゲルハンス」という名前。あるいは「島」。「ランゲルハンス」+「島」ということばに出会えば、だれもが「膵島」を思い浮かべる。あるいは糖尿病を、あるいはインシュリンを、あるいは失神を。そういう現実にあるもの(事実)を暗示させた上で、その事実からどれだけ遠くへことばを動かすことができるか。ことばは、どこまで自由でいられるか。そういうことを実験しようとしているように思える。
入沢にとって、詩とは、ことばの実験なのだ。ことばの可能性なのだ。