詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ22)

2007-05-17 22:41:45 | 詩集
 入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)。 「『声なき木鼠の唄』のための素描」。その「一 声なき木鼠の唄の断片」と「二声なき木鼠の唄の来歴」はおもしろい関係になっている。 「一」の最初の部分。
  1 密通 呪詛の来歴と呼ぼうと実現の笑い--苦い笑い。   2 将棋 天空を盤面とし、雲を駒として、雨至らば即ち止む。
 「二」の最初の部分。
呪詛の来歴と机に降り積つた羽毛との間で 憎しみと苦しみをむしろ意志的に失つて来た眼 それは天空を盤面としてその周囲に木炭で番号を逆に書きつけていくこと
 「一」で書かれたことばが「二」でもう一度つかわれている。ただし、そのとき「二」は「一」を踏まえているわけではない。 「一」を「誤読」して「二」が誕生している。いや、これは「誤読」をとおりこしている。 ことばはそれぞれ文脈を持っている。だが、そのことばを文脈から切り離してもことばはことばとして存在する。その独立して存在する力を利用して、文脈は捏造できる。「来歴」ということばを入沢はつかっているが、それは「文脈」を「ことばの過去」ととらえるからであろう。  「来歴」ということばに触れながら、私は、ふと三島由紀夫を思い出した。三島は「文章読本」のなかで芝居のことばと小説のことばの違いを説明していた。小説は「地」の部分で登場人物の「来歴」(生きてきた過去、今、ここにいることの理由・背景)を説明することができる。ところが芝居には「地」の部分がない。せりふで「来歴」を説明しなければならない。芝居のせりふのなかには、その人物の「過去」が必要だ。芝居のせりふでは、常に過去を語りながら現在を語り、そうすることで未来へ進んで行かなければならない。 その三島の論を借りていえば、入沢の「二」(来歴)は、「一」という「過去」の断章を取り込みながらことばを突き動かし、時間をつくり出しているのだから、これはことばの、ことばによる、ことばのための「芝居」なのだ。 芝居とは、ようするに見せ物である。見せ物には仕掛けが必要だ。「一」という過去を「二」のなかに取り込むという仕掛け--仕掛けがわかるように、実際の詩集では、「一」から引用された部分はゴシックで書かれている。仕掛けを見せながら、入沢はことばを動かしている。  だが、ほんとうだろうか。  入沢は、もしかすると仕掛けそのものを見せたいのではないのではないのか。ことばがどこかへ動いてゆく、ことばはどこへでも動いてゆく力を持っている--ということよりも、ことばは仕掛けによって動いてしまう、仕掛けこそがことばのほんとうの力なのだといいたいのではないのか。  仕掛けが「誤読」なのだ。「誤読」するとき、ひとは無意識に仕掛けをつくっている。入沢は、それを無意識ではなく意識的につくる。無意識を常に意識する。無意識こそが意識なのだ。意識のピュアな姿なのだ。仕掛けを明白にすることで、入沢は、そうしたことを「逆説的」に語ろうとしている。
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アンソニー・ミンゲラ監督「こわれゆく世界の中で」

2007-05-17 21:14:58 | 映画
監督 アンソニー・ミンゲラ 出演 ジュード・ロウ、ジュリエット・ビノシュ、ロビン・ライト・ペン、ラフィ・ガヴロン

 ジュリエット・ビノシュにただただみとれてしまう。途中まで出て来ないので、なんだかまだるっこしいがジュリエット・ビノシュが出て来たとたんにスクリーンに奥行きが出る。空間の奥行きではなく、時間の奥行きである。映画や芝居は小説と違って「説明」がない。登場人物はそれぞれ過去を背負っている。小説は、それをことばで「説明」ができる。この映画の場合なら、ジュリエット・ビノシュは実はボスニアの難民であって、国を脱出するとき、こんな苦労をしたと「説明」ができる。ところが映画では、そういうことは「せりふ」でやらなければならない。しかも「会話」として自然な形でおこなわなければならない。当然、そこには「ことば」にはできないこともあるわけで、そのことばにできない部分(ことばにしたくない部分)をどうやって肉体で表現するか。ジュリエット・ビノシュはそのこと、ことばにしたくない部分を肉体でつたえること、過去を肉体そのものでつたえることに長けている。
 肉体といってもいろいろある。目の色(輝き)の変化。顔の「はり」と「かげり」の対比。また、着ている洋服、下着……。その着こなし。肌へのなじませ方。そういうものもジュリエット・ビノシュは巧みだが、他の女優と違った肉体がある。
 映画の途中でジュード・ロウがジュリエット・ビノシュの顔について「唇を目をつむってでも描ける」というようなことを言う。ジュリエット・ビノシュはたしかに唇で語るのだ。ことばにならない声、ことばを求めて無意識に動く唇の形--そういうものを感じさせる。目が人間の顔をつくるのはよく言われることだが、それに加えて、ジュリエット・ビノシュは唇が語る。こころが、唇までかけのぼってきて、そしてことばを発することなく引き返してゆく。ジュリエット・ビノシュの唇は、声を出すための「道具」ではなく、こころを浮かび上がらせる何かだ。
 脚本家が発見したのか、監督が発見したのか、いずれにしろ映画をつくっている誰かがジュリエット・ビノシュの唇を発見し、それをスクリーンに映像とことばで定着させた。そのことを確認するだけでも、この映画は見る価値がある。

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 小柳玲子『夜の小さな標』

2007-05-17 14:36:10 | 詩集
 小柳玲子『夜の小さな標』(花神社、2007年05月08日発行)。
 小柳の作品は「寓話」である。「寓話」の題材というか、出発点は、たとえば絵画であったり、音楽であったりする。いわば「芸術」である。「芸術」にふれて動いたこころがつくりだす「物語」。「芸術」が内包している「物語」を小柳は、小柳自身のことばで語りなおし、同時にその「寓話」のなかへ小柳自身が入り込む。「寓話」のなかへ入り込んだ小柳が、いわば「寓話」の世界と「現実」の世界を結びつける。
 たとえば「夜明け」。
 小柳はバスを待ちながら版画を見ている。版画は、今、小柳がバスを待っている場所とどこか通じ合っている。夜。家の玄関が開いている。2階に明かりがつく。何かを探しているらしい。
 小柳は、彼女がトランクを忘れてきたことを思い出し、2階へ駆け上がり、明かりをともしトランクを探す。それは、まるで小柳が見ていた版画の世界である。
 実際に小柳がトランクを探しに行ったのか、それとも感情移入(?)することで、版画の世界そのままを自分の世界と勘違いしたのか。
 いずれにしろ、その「寓話」のなかで、小柳の肉体が現実のものとして動き回る。「知識」ではなく肉体そのものを「寓話」に持ち込み、その肉体で読者と向き合う。この小柳の方法は、1篇1篇読んでいたときには、私は見落としていた。読み落としていた。一冊になった詩集で読み直し、あ、おもしろいなあ、と感じた。
 「寓話」は完璧であればあるほどスノッブな感じが強くなるが、小柳は、そのスノッブな感じを小柳自身の肉体で浄化している。
 「年の終りに」には、その浄化の感じを特に強く感じる。
 小柳が書いた作品(寓話)を事実と勘違いして読者が訪ねてくる。(こういうストーリー自体が「寓話」でもあるのだが。)

「私はたしかに奥沢って町に住んでいたことはあります。でもあれ
って全部ウソなんです。ごめんなさい」
「でも叔母さまは若くて亡くなられて……」
「いえ、違うんです 私は叔母なんかいないんです ごめんなさい
私はずっとひとりで あんな叔母でもいたらいいなって思っただけ
なんです 私はこどもの時から虚言癖があって ウソつきってあだ
名で……」
ああ どうして赤の他人にこんなみっともないことを言わなきゃな
らないんだ

 「ああ どうして赤の他人にこんなみっともないことを言わなきゃならないんだ」という「肉体」。「みっともない」という「肉体」。小柳が書いていることがほんとうにみっともないことがどうかは問題ではない。読者が判断することではない。小柳が「みっともない」と書くから、それがみっともないことになり、そのみっともないという感じが読者のものになる。
 かつては、こういうことばはたくさんあった。最近人気の「もったいない」、あるいは以前は幅を聞かせていた「はずかしい」。そういう肉体をもったことばが最近は非常に少なくなってきている。そういう少なくなってきている肉体としてのことばを、小柳は「寓話」のなかへ入り込んでも手放さない。肉体のことばは、読者の肉体のことばを引き寄せ、ひとつにする。
 肉体というのは不思議なもので、たとえば誰かが腹痛でうずくまっている。その肉体をみると、その腹痛が自分の腹痛ではないのに、その人が腹痛のためにうずくまっていることがわかる。同じように、「みっともない」ということばの肉体は、何がみっともないのか、ことばで再定義することが非常に難しいにもかかわらず、「あの」みっともないだとわかる。腹痛でうずくまる人間を見て「あの」腹痛の痛みだ、とわかるように。
 こういうことばがあるから、小柳の「寓話」は頭だけでこしらえた「寓話」とは違って、不思議なあいまいさ、不思議な奥行きと、さらには現実へと侵食してくる力を獲得する。「寓話」を「寓話」として構築することばの力もおもしろいけれど、その「寓話」のなかへ入り込み、そこからもう一度現実へ出てこようとする姿勢をなくさない肉体としてのことばが、それよりもはるかにおもしろい。

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