入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)。 「『声なき木鼠の唄』のための素描」。その「一 声なき木鼠の唄の断片」と「二声なき木鼠の唄の来歴」はおもしろい関係になっている。 「一」の最初の部分。
1 密通 呪詛の来歴と呼ぼうと実現の笑い--苦い笑い。 2 将棋 天空を盤面とし、雲を駒として、雨至らば即ち止む。「二」の最初の部分。
呪詛の来歴と机に降り積つた羽毛との間で 憎しみと苦しみをむしろ意志的に失つて来た眼 それは天空を盤面としてその周囲に木炭で番号を逆に書きつけていくこと「一」で書かれたことばが「二」でもう一度つかわれている。ただし、そのとき「二」は「一」を踏まえているわけではない。 「一」を「誤読」して「二」が誕生している。いや、これは「誤読」をとおりこしている。 ことばはそれぞれ文脈を持っている。だが、そのことばを文脈から切り離してもことばはことばとして存在する。その独立して存在する力を利用して、文脈は捏造できる。「来歴」ということばを入沢はつかっているが、それは「文脈」を「ことばの過去」ととらえるからであろう。 「来歴」ということばに触れながら、私は、ふと三島由紀夫を思い出した。三島は「文章読本」のなかで芝居のことばと小説のことばの違いを説明していた。小説は「地」の部分で登場人物の「来歴」(生きてきた過去、今、ここにいることの理由・背景)を説明することができる。ところが芝居には「地」の部分がない。せりふで「来歴」を説明しなければならない。芝居のせりふのなかには、その人物の「過去」が必要だ。芝居のせりふでは、常に過去を語りながら現在を語り、そうすることで未来へ進んで行かなければならない。 その三島の論を借りていえば、入沢の「二」(来歴)は、「一」という「過去」の断章を取り込みながらことばを突き動かし、時間をつくり出しているのだから、これはことばの、ことばによる、ことばのための「芝居」なのだ。 芝居とは、ようするに見せ物である。見せ物には仕掛けが必要だ。「一」という過去を「二」のなかに取り込むという仕掛け--仕掛けがわかるように、実際の詩集では、「一」から引用された部分はゴシックで書かれている。仕掛けを見せながら、入沢はことばを動かしている。 だが、ほんとうだろうか。 入沢は、もしかすると仕掛けそのものを見せたいのではないのではないのか。ことばがどこかへ動いてゆく、ことばはどこへでも動いてゆく力を持っている--ということよりも、ことばは仕掛けによって動いてしまう、仕掛けこそがことばのほんとうの力なのだといいたいのではないのか。 仕掛けが「誤読」なのだ。「誤読」するとき、ひとは無意識に仕掛けをつくっている。入沢は、それを無意識ではなく意識的につくる。無意識を常に意識する。無意識こそが意識なのだ。意識のピュアな姿なのだ。仕掛けを明白にすることで、入沢は、そうしたことを「逆説的」に語ろうとしている。