詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「眠らないもの」

2007-05-14 15:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川朱実「眠らないもの」(「石の詩」67、2007年05月20日発行)。
 「望郷」というのだろうか、「こころの原点」というのだろうか。いつも帰っていく場所かある。帰っていく時間、エピソードのようなものが人間にはある。そういうものを北川は描いている。

夏の国体に出られなかった少年が
誰もいないプールを
クロールで
なんども往復して
選考会があった日まで戻っていく

 「少年」「敗北」「戻る」。抒情がセットになって書かれている。この少年が大人になると、抒情のセットはまた別のものになる。

ビールを飲み
笑いながら枝豆を食べる友人の
目の奥には

けれども
誰にも見えない部屋があり
両手で顔をおおって泣く人がいた

 「ビール」「笑いながら」「目の奥」「見えない部屋」「顔をおおって泣く」。ここにも「敗北」がある。少年とは違って敗北を前面には出さず、「笑い」で隠している。隠すことが大人の抒情のポイントである。
 私はこういう抒情のセットが嫌いである。予定調和のようで気持ちが悪い。
 それでも私がこの詩が好きなのは、最後の部分が気に入っているからだ。

夜中に
動物園の横を通ったら
とつぜん大きな咆哮がして

一頭のゾウが
やわらかな耳を
ぶるんぶるん振るって砂をまき散らし

遠い大陸へ帰っていくのを見た

 突然あらわれたゾウが予定調和の抒情を洗い去って行く。ゾウの「敗北」(とらえられ、動物園にいること)はゾウの責任ではない。ゾウには、どうすればとらえられなかったのか(敗北しなかったのか)というようなことはわからない。そういう人間の「事情」あるいは「人事」とは無関係ないのちの悲しみ。ここに、突然「望郷」の本質が噴き出ている。それが美しい。
 「やわらかな耳」の「やわらかな」は北川が感じたいのちのあり方だ。こういう「共感」も私は好きだ。
 この最後の部分を読んで、タイトルの「眠らないもの」というタイトルの意味がわかるのだが、このタイトルと最後の部分の向き合い方も余韻があっていいなあ、と思う。

 これは私の願望だが、前半部分を削り取って、最後の3連だけだったら、私はもっとこの作品が好きになったと思う。「少年」や「友人」を登場させないことには抒情の深み(?)が明確にならない、人間の抒情が描けないという感じが北川に残るのかもしれない。ゾウを見て感じたものが十分につたわらないと北川は不安なのかもしれない。
 しかし、つたわらなくてもいいのではないだろうか。
 北川とゾウが夜中に共感した。その事実だけの方が、哀しく、せつせつと何かを訴えかけるのではないだろうか。


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入沢康夫と「誤読」(メモ20)

2007-05-14 10:52:34 | 詩集
 入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)。
 『マルピギー氏の館』のための素描の「28 呪い(その二)」に入沢の世界にとって重要なことばが出てくる。思わず傍線をひきたくなることばが出てくる。「逆説」。

 してみれば、このような館は亡び去るべきだ。マルピギー氏の館で、
ひとは逆説に驚かない。むしろ逆説と逆説の落差に身をまかせて、ちょ
うど超現実派の詩の過度の読書がもたらすのと同質の、一種の荒廃感に
ひたりながら、逆説的でない存在の仕方について、きわめてありきたり
のあこがれを抱いたりするのだ。

 「逆説」はこの詩のなかに無数に出てくる。「13 窓」「15 秘密」「16 魔女裁判」「21 行為」……。
 「21 行為」を読むとわかるのだが、その「逆説」は、「逆説」というよりは矛盾の結合と言い換えた方がいいかもしれない。そう考えると、「逆説」ということば自体よりも、「逆説」ということばが隠しているもの(表しているものではない--と書くと、これもまた逆説になるが)こそ、もっと重要かもしれないという気がする。

 ひとはここでは、ひかじかのものを愛することと、愛さないことと、
その両方を同時に行うことに敢然として長じなければならない。

 「愛することとと、愛さないこと」。その矛盾を「同時に」行うこと。「同時」が「矛盾」や「逆説」にとって重要である。ほんとうの「キーワード」は「同時」かもしれない。そのことばがないと、作品が書けないことばを「キーワード」て定義するなら、入沢にとって絶対不可欠なことばは「同時」かもしれない。
 「同時」でなければ「矛盾」や「逆説」は真の意味での「矛盾」や「逆説」ではない。時と場所が違えば、あることは正しくもなれば正しくないことにもなりうる。
 「誤読」もまた、「同時」が重要である。ある作品を読む。そのとき、その作品の「正しい内容(作者の意図)」と読者の「思いを込めた誤読」は同時に存在している。目の前にあることばを接点として「同時」にそこに存在している。

 この「同時」は「28 呪い(その二)」では「同時」ということばをつかわずに書かれている。「荒廃感にひたりながら」と「あこがれを抱いたりする」。「ながら」はある行為と別の行為を「同時に」するときに用いることばである。
 この「同時」は、時が同じという意識と、もうひとつ別の意識によって成り立つ。時は同じであるけれど、行為は別である。行為と行為との間には「違い」がある。「差」がある。
 「逆説と逆説の落差」。「落差」と呼ばれているもの。「違い」。「ずれ」。
 「誤読」もまた、作者の「意図」と読者の「思い」の「落差」から生まれる。作者の意図と読者の思いがぴったり重なれば「誤読」は生まれない。
 作者の意図を正確に読み取り、感情・思想を理解することが「正しい読書」なのだろうけれど、ひとはそういう読書だけをしたいとは思わない。読書とは、自分のなかで明確になっていないことば(思想、感情)を作者のことばを借りて発見することだ。作者の思想を知りたいから読書するのではなく、自分自身の思想を確かめたいから読書するのである。そして、作者のことばを作品から奪い取り、自分自身の思想を託していくときから「誤読」が始まる。
 ある作品は作者の思想を代弁するものとして存在するのではなく、読者によって「誤読」され、作者の手許を離れて独立して存在する--というのは、それこそ作品定義に対する「逆説」だろう。しかし、多くの作品は「正しく」読まれると同時に「誤読」されることで生き長らえる。「誤読」のなかで新しいいのちを獲得し続ける。

 「同時」。そして、時を越えて「同じ」であること。作者がある作品を書いたその時代での「同時」、作者が作品を書いた時を離れ、時を越えて、その作品が違った時代に読まれるときの「同時」。
 ことばはひとつである。しかし、読み方はひとつではない。そのひとつではない読み方のなかには「誤読」が含まれる。「誤読」なのに、いのちを獲得してしまうものがある。それは何なのか。なぜ、「誤読」せざるを得ないのか。なぜ「誤読」が引き継がれるのか。
 そこには文学が成立するときの不思議ななぞがある。「誤読」をとおして、入沢は文学が成立する秘密を探ろうとしている。入沢の作品は、文学を探求する文学、メタ文学である。
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ジョー・カーナハン監督「スモーキン・エース」

2007-05-14 02:47:40 | 映画
監督 ジョー・カーナハン 出演 ベン・アフレック、アンディ・ガルシア、アリシア・キーズ

 FBIが盗聴したマフィアのボスをめぐる電話がきっかけで殺し屋が集まってくる。彼らはマフィアの秘密を知っていると思われるマジシャンを殺そうとし、FBIはマジシャンを守ろうとする。マジシャンから証言を引き出し、マフィアを壊滅しようとする。
 別におもしろい話ではない。
 殺し屋はマジシャンを殺せばそれでいいのだけれど、殺すためにはマジシャンを狙っている殺し屋が邪魔。先に殺されてしまっては仕事にならない。というわけで、マジシャンを殺す前に、殺し屋同士の殺人がある。FBIと殺し屋の戦いがある。
 ストーリーがアナーキーだけに、映像もアナーキー。会話もアナーキー。殺し屋の特徴がぱっと短いことばで説明されるだけなので、誰が誰なのか、たぶんわからなくなる。わからなくなっても、そんなことは関係がない。ただ、殺し合うだけ。だからおもしろい。殺し合い、血が流れるのに、ぜんぜん悲壮感がない。壮絶さがない。エレベーターのなかの銃撃戦、チェンソーで殺すつもりが動けなくなって自分の手を切る羽目になる殺し屋、なんていうシーンは、なぜだか笑えてしまう。
 非常に人間的(?)なシーンが一つ。
 女二人の殺し屋。たぶん、レズビアン。ひとりの女は相棒(恋人)が銃撃戦に巻き込まれ死んでしまった思う。やけになる。その瞬間、相棒(恋人)が男に抱き抱えられて殺戮現場のホテルから出ていくのを銃の照準スコープで見てしまう。「え、どうして? なぜ?」と思った瞬間、彼女自身が暗殺者であるということを忘れてしまう。自分と相棒(恋人)との関係はどうなる? 死ぬか生きるかではなく、恋の行方がどうなるかが心配になる。ほかのことには無防備になる。そして、その瞬間、背後から撃たれて死んでしまう。
 あ、殺人者も人間なんだ、とふっと思う。

 最後に、殺し屋ではなく、FBI捜査官が、ひとり人間的な抵抗を試みて、この映画は終わるけれど、これは蛇足。
 女二人の殺し屋を描いたタッチで、殺し屋同士の人間関係を濃密にしたらとんでもない傑作になったかも、と勘違いしそうなほどアナーキーな映画でした。

コメント (1)
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