北川朱実「眠らないもの」(「石の詩」67、2007年05月20日発行)。
「望郷」というのだろうか、「こころの原点」というのだろうか。いつも帰っていく場所かある。帰っていく時間、エピソードのようなものが人間にはある。そういうものを北川は描いている。
「少年」「敗北」「戻る」。抒情がセットになって書かれている。この少年が大人になると、抒情のセットはまた別のものになる。
「ビール」「笑いながら」「目の奥」「見えない部屋」「顔をおおって泣く」。ここにも「敗北」がある。少年とは違って敗北を前面には出さず、「笑い」で隠している。隠すことが大人の抒情のポイントである。
私はこういう抒情のセットが嫌いである。予定調和のようで気持ちが悪い。
それでも私がこの詩が好きなのは、最後の部分が気に入っているからだ。
突然あらわれたゾウが予定調和の抒情を洗い去って行く。ゾウの「敗北」(とらえられ、動物園にいること)はゾウの責任ではない。ゾウには、どうすればとらえられなかったのか(敗北しなかったのか)というようなことはわからない。そういう人間の「事情」あるいは「人事」とは無関係ないのちの悲しみ。ここに、突然「望郷」の本質が噴き出ている。それが美しい。
「やわらかな耳」の「やわらかな」は北川が感じたいのちのあり方だ。こういう「共感」も私は好きだ。
この最後の部分を読んで、タイトルの「眠らないもの」というタイトルの意味がわかるのだが、このタイトルと最後の部分の向き合い方も余韻があっていいなあ、と思う。
これは私の願望だが、前半部分を削り取って、最後の3連だけだったら、私はもっとこの作品が好きになったと思う。「少年」や「友人」を登場させないことには抒情の深み(?)が明確にならない、人間の抒情が描けないという感じが北川に残るのかもしれない。ゾウを見て感じたものが十分につたわらないと北川は不安なのかもしれない。
しかし、つたわらなくてもいいのではないだろうか。
北川とゾウが夜中に共感した。その事実だけの方が、哀しく、せつせつと何かを訴えかけるのではないだろうか。
「望郷」というのだろうか、「こころの原点」というのだろうか。いつも帰っていく場所かある。帰っていく時間、エピソードのようなものが人間にはある。そういうものを北川は描いている。
夏の国体に出られなかった少年が
誰もいないプールを
クロールで
なんども往復して
選考会があった日まで戻っていく
「少年」「敗北」「戻る」。抒情がセットになって書かれている。この少年が大人になると、抒情のセットはまた別のものになる。
ビールを飲み
笑いながら枝豆を食べる友人の
目の奥には
けれども
誰にも見えない部屋があり
両手で顔をおおって泣く人がいた
「ビール」「笑いながら」「目の奥」「見えない部屋」「顔をおおって泣く」。ここにも「敗北」がある。少年とは違って敗北を前面には出さず、「笑い」で隠している。隠すことが大人の抒情のポイントである。
私はこういう抒情のセットが嫌いである。予定調和のようで気持ちが悪い。
それでも私がこの詩が好きなのは、最後の部分が気に入っているからだ。
夜中に
動物園の横を通ったら
とつぜん大きな咆哮がして
一頭のゾウが
やわらかな耳を
ぶるんぶるん振るって砂をまき散らし
遠い大陸へ帰っていくのを見た
突然あらわれたゾウが予定調和の抒情を洗い去って行く。ゾウの「敗北」(とらえられ、動物園にいること)はゾウの責任ではない。ゾウには、どうすればとらえられなかったのか(敗北しなかったのか)というようなことはわからない。そういう人間の「事情」あるいは「人事」とは無関係ないのちの悲しみ。ここに、突然「望郷」の本質が噴き出ている。それが美しい。
「やわらかな耳」の「やわらかな」は北川が感じたいのちのあり方だ。こういう「共感」も私は好きだ。
この最後の部分を読んで、タイトルの「眠らないもの」というタイトルの意味がわかるのだが、このタイトルと最後の部分の向き合い方も余韻があっていいなあ、と思う。
これは私の願望だが、前半部分を削り取って、最後の3連だけだったら、私はもっとこの作品が好きになったと思う。「少年」や「友人」を登場させないことには抒情の深み(?)が明確にならない、人間の抒情が描けないという感じが北川に残るのかもしれない。ゾウを見て感じたものが十分につたわらないと北川は不安なのかもしれない。
しかし、つたわらなくてもいいのではないだろうか。
北川とゾウが夜中に共感した。その事実だけの方が、哀しく、せつせつと何かを訴えかけるのではないだろうか。