石川和広「プラグ」(「tab」4、2007年05月15日発行)。
何も説明しない--それが詩になるときがある。石川和広の「プラグ」がそういう作品だと思う。
「プラグ」は何かの象徴だろうか。比喩だろうか。象徴や比喩は別のことばで言い直されるのが「文学」の約束事のようなものだが、その言い直しがない。たぶん言い直すことが石川にはできないのだろう。言い直すことができないから、そのままほうりだしている。
詩のつづき。
2連目の「それからしばらく」という不安定な1行がおもしろい。不安定と書いたが、この詩のなかではその1行だけが非常に安定している。どっしりと、浮動の姿勢でそこにある。
この詩は「プラグ」で読者をひっぱってゆくが、実際に詩のなかに生きている時間は「それからしばらく」という、あいまいで、思考が中断したままの、奇妙な空白だけである。その空白のなかに「プラグ」ものみこまれていく。
「考えもしないし/何も見なかった」。これは「それからしばらく」を言い直したものである。(ここでは石川は「文学の約束事」を守っている。)
空白--ことばを拒絶する世界があって、その前で石川はことばをむりやりにうごかしたりしない。
その空白をむりやりことばで追い詰めていくのが、ある時代の詩ではあったが、今はそういうことはしない。その、そういことをしない詩の、生まれる瞬間のようなものが、すーっと浮かび上がってくる。
最終連も、とても好きだ。
「関係なかった」。これも「それからしばらく」を言い直したものである。「考えもしないし/何も見なかった」を言い直したものである。(石川は「文学の約束事」をていねいに守っている。)
関係がないものに、むりやり関係など結びつけない。間に「空白」を「中断」を挟んだままにしておく。そういうふうに、空白や中断があっても世界は世界として存在する。
それは「プラグ」を抜いても「機能停止」にならなかったことの言い直しであると言えば言えるけれど、そんなふうに石川の言語世界を二重化して「意味」という重力で立体化する必要はないだろうと思う。
石川がせっかくほうりだした「空白」「中断」を、「しばらく」何もしないで見ていればいいのだという気がする。
*
この詩を引用するとき、私はある3行をわざと省略した。その3行には「意味」がこめられていて、それが私には窮屈に思えたからである。
石川はもしかするとその3行をこそ書きたかったのかもしれないが、その3行は読者がかってに想像すればいいものであって、書いてしまうと石川の考えを押しつけているような気がしたからである。
どんな3行が、どこに書かれていたか、気になる人は「tab」を読んでください。
何も説明しない--それが詩になるときがある。石川和広の「プラグ」がそういう作品だと思う。
僕から
プラグを抜いたのはいつだったか
全く異常でも
苦痛でもなかった
ドラえもんなら機能停止だが
僕の機能は果たされている
「プラグ」は何かの象徴だろうか。比喩だろうか。象徴や比喩は別のことばで言い直されるのが「文学」の約束事のようなものだが、その言い直しがない。たぶん言い直すことが石川にはできないのだろう。言い直すことができないから、そのままほうりだしている。
詩のつづき。
それからしばらく
雨が降っていた
時々止んだ
雲を見ていた
まだ雨が降りそうな
雲を見ていた
しばらく何も降りてこなかった
空からも何も降りてこなかった
2連目の「それからしばらく」という不安定な1行がおもしろい。不安定と書いたが、この詩のなかではその1行だけが非常に安定している。どっしりと、浮動の姿勢でそこにある。
この詩は「プラグ」で読者をひっぱってゆくが、実際に詩のなかに生きている時間は「それからしばらく」という、あいまいで、思考が中断したままの、奇妙な空白だけである。その空白のなかに「プラグ」ものみこまれていく。
プラグは抜かれたままだった
プラグの先はどこへつながっていたか
考えもしないし
何も見なかった
それでも
毎日はあって
何もしないで
少しおじいさんのことを考えた
プラグとは関係なかった
もうすぐ十三回忌だった
単純にそのことだけを覚えておくようにした
「考えもしないし/何も見なかった」。これは「それからしばらく」を言い直したものである。(ここでは石川は「文学の約束事」を守っている。)
空白--ことばを拒絶する世界があって、その前で石川はことばをむりやりにうごかしたりしない。
その空白をむりやりことばで追い詰めていくのが、ある時代の詩ではあったが、今はそういうことはしない。その、そういことをしない詩の、生まれる瞬間のようなものが、すーっと浮かび上がってくる。
最終連も、とても好きだ。
プラグとは関係なかった
「関係なかった」。これも「それからしばらく」を言い直したものである。「考えもしないし/何も見なかった」を言い直したものである。(石川は「文学の約束事」をていねいに守っている。)
関係がないものに、むりやり関係など結びつけない。間に「空白」を「中断」を挟んだままにしておく。そういうふうに、空白や中断があっても世界は世界として存在する。
それは「プラグ」を抜いても「機能停止」にならなかったことの言い直しであると言えば言えるけれど、そんなふうに石川の言語世界を二重化して「意味」という重力で立体化する必要はないだろうと思う。
石川がせっかくほうりだした「空白」「中断」を、「しばらく」何もしないで見ていればいいのだという気がする。
*
この詩を引用するとき、私はある3行をわざと省略した。その3行には「意味」がこめられていて、それが私には窮屈に思えたからである。
石川はもしかするとその3行をこそ書きたかったのかもしれないが、その3行は読者がかってに想像すればいいものであって、書いてしまうと石川の考えを押しつけているような気がしたからである。
どんな3行が、どこに書かれていたか、気になる人は「tab」を読んでください。