詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川和広「プラグ」

2007-05-19 14:52:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 石川和広「プラグ」(「tab」4、2007年05月15日発行)。
 何も説明しない--それが詩になるときがある。石川和広の「プラグ」がそういう作品だと思う。

僕から
プラグを抜いたのはいつだったか
全く異常でも
苦痛でもなかった
ドラえもんなら機能停止だが
僕の機能は果たされている

 「プラグ」は何かの象徴だろうか。比喩だろうか。象徴や比喩は別のことばで言い直されるのが「文学」の約束事のようなものだが、その言い直しがない。たぶん言い直すことが石川にはできないのだろう。言い直すことができないから、そのままほうりだしている。
 詩のつづき。

それからしばらく

雨が降っていた
時々止んだ
雲を見ていた
まだ雨が降りそうな
雲を見ていた
しばらく何も降りてこなかった
空からも何も降りてこなかった

 2連目の「それからしばらく」という不安定な1行がおもしろい。不安定と書いたが、この詩のなかではその1行だけが非常に安定している。どっしりと、浮動の姿勢でそこにある。
 この詩は「プラグ」で読者をひっぱってゆくが、実際に詩のなかに生きている時間は「それからしばらく」という、あいまいで、思考が中断したままの、奇妙な空白だけである。その空白のなかに「プラグ」ものみこまれていく。

プラグは抜かれたままだった
プラグの先はどこへつながっていたか
考えもしないし
何も見なかった

それでも
毎日はあって
何もしないで

少しおじいさんのことを考えた
プラグとは関係なかった
もうすぐ十三回忌だった
単純にそのことだけを覚えておくようにした

 「考えもしないし/何も見なかった」。これは「それからしばらく」を言い直したものである。(ここでは石川は「文学の約束事」を守っている。)
 空白--ことばを拒絶する世界があって、その前で石川はことばをむりやりにうごかしたりしない。
 その空白をむりやりことばで追い詰めていくのが、ある時代の詩ではあったが、今はそういうことはしない。その、そういことをしない詩の、生まれる瞬間のようなものが、すーっと浮かび上がってくる。
 最終連も、とても好きだ。

プラグとは関係なかった

 「関係なかった」。これも「それからしばらく」を言い直したものである。「考えもしないし/何も見なかった」を言い直したものである。(石川は「文学の約束事」をていねいに守っている。)
 関係がないものに、むりやり関係など結びつけない。間に「空白」を「中断」を挟んだままにしておく。そういうふうに、空白や中断があっても世界は世界として存在する。
 それは「プラグ」を抜いても「機能停止」にならなかったことの言い直しであると言えば言えるけれど、そんなふうに石川の言語世界を二重化して「意味」という重力で立体化する必要はないだろうと思う。
 石川がせっかくほうりだした「空白」「中断」を、「しばらく」何もしないで見ていればいいのだという気がする。



 この詩を引用するとき、私はある3行をわざと省略した。その3行には「意味」がこめられていて、それが私には窮屈に思えたからである。
 石川はもしかするとその3行をこそ書きたかったのかもしれないが、その3行は読者がかってに想像すればいいものであって、書いてしまうと石川の考えを押しつけているような気がしたからである。
 どんな3行が、どこに書かれていたか、気になる人は「tab」を読んでください。

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入沢康夫と「誤読」(メモ24)

2007-05-19 11:41:17 | 詩集
 入沢康夫『「月」そのほかの詩』(1977年)。
 「碑文--一九七〇年の死者たちに」。最初の断章におもしろい部分がある。

       その赤い毛がわれらの心にみるみる降りつ
もつて縦横にみみず脹れを作るのだが 熱病の鶏たち 自
らの糞に汚れた鶏たちは 今度はそのみみず脹れを啄まう
として夢中でかけまはり

 「みみず脹れ」を鶏がついばむ? 鶏はミミズをついばむことはあっても「みみず脹れ」をついばむことはない。「みみず脹れ」からミミズへと意識が動くのはことばで考える人間だけである。
 ここに書かれているのは簡単に言えばことば遊びだが、その遊びのなかには、入沢がそのことば遊びを書かずにはいられない理由がある。

 ことばは現実をとらえるのではなく、ことばは現実を間違えてしまうきっかけとなって働く。「誤読」「誤解」はことばによって起こる。ことばなしには「誤読」「誤解」はなく、その「誤読」「誤解」のなかには人間だけが可能な何かがある。
 現実を離れ、夢想する力、想像する力。
 想像力を定義して現実をねじまげる力と読んだのはバシュラールだったが、現実をねじまげて、ありえない世界をつくりだす力のなかには何かがある。人間の本質のようなものがある。そういうものを入沢は見据えている。

 入沢自身の作品のなかから、この「想像力」について語った部分を引用すれば、「それ故」という断章のなかの次の部分だろうか。

                  もしもこのやうな
時にわれらが一枚の布を得てそこに未知の惑星と死んだ友
人たちの淋しげな影を強引に織り合わせ さうすることに
よつて一人の《嘆きの母親》を浮き出させようとしてゐる
といふならば

 布は糸を糸を織り合わせてつくる。ある布に糸以外のもの、「未知の惑星と死んだ友人たちの淋しげな影」を織り合わせるというようなことは現実にはできない。どんなに「強引」にこころみても、そういうことはできない。それはことばのうえで、想像力によってのみ可能なことである。したがって、その結果として(「そうすることによつて」と入沢は書いている)、「《嘆きの母親》を浮き出させ」るというのも、ことばの上でのことである。
 ことばはいつでも現実ではできないことを語ることができる。
 なぜだろう。
 なぜ、現実ではないことを語りうるのだろうか。実際に見たこともない、体験したこともないのに、それがありうるとなぜことばは語りうるのだろうか。現実にはありえない夢想を語るとき、ことばは何を根拠にしているのだろうか。
 根拠になるのは自分の願望である。夢である。自分にはできないけれど、そうあって欲しいと思うこころである。その願望、祈りの強さを根拠にして、人は現実にはありえないことを語る。
 そうであるなら、「誤解」「誤読」によってつみかさねられることば、その結果として浮かび上がる世界は、やはり人の願望、祈りによって支えられていることになりはしないか。

 「誤解」「誤読」の指摘は、そうした「誤解」「誤読」を否定するため、現実へと認識を軌道修正するために必要なのではなく、「誤解」「誤読」のなかから、人間の根源的な願望、祈りを明確にするために必要なのだ。
 人間の根源的な願望、祈りは、権力を持たない人間の内部に「誤解」「誤読」の世界を構築する。そうすることで人間の願望、祈りを守ろうとする。「誤解」「誤読」は人間にとって絶対的に必要な「聖堂」のようなものである。「誤解」「誤読」という「聖堂」のなかで、人間はこころを育ててゆく。
 その「聖堂」のひとつが、たとえば「詩」と呼ばれる文学である。
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