詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺玄英「セカイが終わりに近づくと」

2007-05-09 15:59:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 渡辺玄英「セカイが終わりに近づくと」(「SEED」12、2007年05月10日発行)。
 自己完結というか、ことばを発し、自分自身で納得するときの、いやらしい抒情を感じた。

セカイが終わりに近づくこと
良いコトがおこる
悪いコトがおこる
たましいをひくくして(うむ
名前が思い出せない
(いつ忘れたか忘れている忘れたことも忘れて
いる
くらいしずかな歌を口ずさんでいる
キミは何を待っているの?
目を醒ます時計の
電池が切れるのをまって
いるみたいに(うむ

 「(うむ」1連目に2度あらわれるこの相槌にいやらしさを感じる。渡辺としては抒情に流れるのを(うむ、を挟むことで食い止めたつもりかもしれない。しかし、私には、抒情の流れに棹をさして、一気に陶酔してしまっているように感じる。
 「たましいをひくくして」ということばを読者がどう読むか、そういうことを無視している。渡辺の感じたとおりに感じてくれ、と押し付けられているように感じる。
 「ひくく」「くらい」「しずかな」あるいは「電池が切れる」ということばのたたみかけ。強靭なもの、パワフルなものの対極にある概念を誘いながら抒情を深めていく。
 たしかにそういう世界に抒情はあるけれど、それを抒情といってしまえば詩は一気に時代を逆戻りする。
 「視角い空の耳鳴り」「死角い空の下」ということばがこのあと出てくるが、この手抜きの抒情も気持ちが悪い。「誤植」を装った概念の押し付けはイメージを貧弱にする。精神を貧弱にする。
 ここに(うむ、は書かれていないが、うむ、うむと自分のことばに酔っている渡辺が見えて気持ちが悪い。
コメント
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