詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵美子『ラジオと背中』

2007-05-05 21:06:29 | 詩集
 斎藤恵美子『ラジオと背中』(思潮社、2007年05月01日発行)。
 斎藤恵美子の『ラジオと背中』には父親の戦争体験や祖父の戦争体験の話がたくさん出てくる。年配の人なのだろうか、と思っていたが、略歴に「1960年生まれ」とある。とても驚いた。1960年生まれの斎藤に戦争体験が語り継がれており、それをきちんと受け止めているということに。
 斎藤は「聞き上手」なのだと思った。他人の(父親の、あるいは母親、祖父だけにかぎらず、いっしょに生きている多くの人の)話を丁寧に聞き、その「空気」をしっかり受け止めることができるのだと思った。戦争体験を聞き取った詩にもその「聞き上手」は発揮されているが、「杖がとどく」というような、ちょっと戦争から離れた作品の方が「聞き上手」である斎藤の姿がくっきりと浮かび上がってくる。

目ぐすりの
けだるいしずくを
眼球は今朝、ひんやりと受けた
冬の、水温になったのだ
ハナミズキの枝ぶりが、すんなり窓にみえ
まっさおに、乾いた空へ、先端がまだ
ゆれている
翼がいま、そこから去り、おもみだけが残されて
しばらく枝からはなれない

 朝の風景。ハナミズキの枝に止まっていた鳥が飛び立った。そのあと、枝が少しゆれている。その様子。

            おもみだけが残されて
しばらく枝からはなれない

 斎藤は目に見えないものを見ている。「空気」を見ている。
 小鳥が飛び立った後、小鳥の重さが枝からはなれないということはない。そのないもの、そして目では見ることのできない「おもみ」(重さ)を斎藤は見ている。
 私はいま、便宜上「重さ」と書いたが、斎藤が見ているのは正確には「重さ」ではなく、「おもみ」である。「み」も「さ」も形容詞「重い」の末尾について、形容詞を名詞化することばだが、微妙に違う。「重さ」はたとえば200グラム、1キロ、というふうに言うことができるが、「重み」はそういう単位では測れない。「重さ」は計りを媒介にして「200グラム」という具体的な量を「見る」ことができるが、「重み」は数量化する方法がないので、それをみることもできない。「重み」は、何か、肌で感じるもの、肉体で感じるものである。
 こういう肉体で感じるもの、肌で感じるものを「空気」と呼ぶ。
 場の「空気」が読めない、などいうふうに、「空気」ということばを使うが、斎藤が受け止めているのは、この「空気」である。
 鳥が飛び立った後、ハナミズキの枝が揺れている。その揺れのなかの「空気」を見ている。木の枝だけではなく、その周囲の「場」全体を見ている。

 父の語る戦争体験。それを聞くときも、斎藤は実は「場」を見ている。父が語る「事実」というよりも、いま、ここに、こうして父が語っている、語らざるを得なくなっているという父の状態を見ている。戦争そのものではなく、戦争を語る父と、そのときの「場」、「空気」を見ている。そして、戦争という事実ではなく、父が語るときの「空気」そのものを受け止め、引き継いでいる。
 「聞き上手」というのは、こういうことを指す。
 「作業服」という作品の最後の2行。

写真の中には写っていない、父を
私は見ようとした

 肉眼で見えるものを見ただけでは「見た」とはいえない。肉眼では見えない「空気」を見てこそ「見た」と言えるのである。
 斎藤の詩は、戦争について語りながら、教条主義的な匂いがないのは、戦争そのものについてよりも、戦争を語る父の「空気」を語っているからである。

 「空気」を見る。そのときつかうのは「視力」だけではない。斎藤は視覚、聴覚だけではなく、五感そのものが、とてもしっとりしている。五感がしっかりした肉体をもっている。「行商の人」の次の2行にも、その五感の安定感を感じた。

もんぺの膝から、すっぱい風が
ふわり、わいて

 おだやかな五感のなかで、斎藤の出会った人々はたしかな「空気」(なくてはならない存在)として生きている。そんなことを感じさせる詩集だ。



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