入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』(1968年)。
Ⅹの部分。
「そのとき」とはいつを指すのだろうか。「Ⅸ」の「その声を追つて野に出れば」を受けるのだろうか。「とき」を特定することは、あまり意味がないかもしれない。出雲に帰省し、出雲について思いめぐらすとき、と考えるだけで十分な感じがする。
興味深いのは「本物の出雲」ではなく、「贋の出雲」と入沢が書いていることだ。「本物」はいつでもひとつである。「贋物」はひとつではなく、それがつくられる数だけ存在する。このとき、もうひとつ興味深いのは、入沢がその複数を「二重になり、三重になり」と書いていることだ。「贋物」はひとつひとつ独立しているのではない。重なり合っているのだ。何らかの重なり、共通するものを持っている。「贋」であることは「本物」と共通のものをもたなければならない。
これは何を意味するのだろうか。
「贋」は「本物」のある部分を土台にして、そこに誰かが何かを付け加えることによって成立していることを意味しないだろうか。「本物」を利用して、自分にとって都合のいいこと、自分の思いを託しやすい物をつくりあげていく。「贋」はそんなふうにしてできなあがっているのではないのか。
出雲、その風土記・神話。それ自身が多くのものの寄せ集めであると入沢は書いているが、その寄せ集めに、入沢はさらに『神曲』を、あるいは『月に吠える』を重ね合わせ、新たな風土記(神話)、入沢版「風土記」(神話)をつくりあげる。入沢の「風土記」(神話)は本物ではない。「贋物」である。「贋物」であるからこそ、そこに入沢自身の思想(思い、願い)が存在する。
「贋」とは、それをつくりあげる人間の「思想」でできあがっているのだ。「贋」こそ、「思想」なのだ。
*
ⅩⅡの部分。鏡文字で書かれた部分がある。反転させて引用する。
「三つ」。一つは何か。ふたつ目は何か。三つ目は何か。それを特定しても、それは便宜上の特定にすぎないだろう。三つあることが重要なのである。一つはことばをもたない風土そのもの。土地、空気、山河そのもの、そしてそこに生きている人間そのもの。もう一つは、その風土を語ったことば、風土記、神話。さらにもう一つは……。それは入沢がことばにした出雲である。入沢が語りなおした「風土記」である。
詩とは何か、文学とは何か。入沢は語りなおすことだと主張したいのだと思う。詩集の「あとがき」で入沢は書いている。
私の力点は、「作品を成立させること」にではなく、「作品とは何かを問うこと」にかかっていた。
作者のことばをそのまま鵜呑みにしていいのかどうか、場合によっては違うだろうけれど、入沢はここでは正直に語っていると思う。入沢は作品とは、ある作品を語りなおすことだと言っているのだ。出雲風土記(神話)を語りなおすことが作品だ。語りなおすとき、そこには「誤読」が入り込む。あることばを別のことばと勘違いする。「出雲風土記」(神話)に書かれていることばを『神曲』や『月に吠える』の文脈でとらえなおすこと、あるいはそうした作品の視点で突き動かすことは「誤読」である。
「誤読」が作品を生み出すのである。
Ⅹの部分。
そのとき、贋の出雲は、ぼくの前で、決定的に二重になり、三重に
なり、無数の姿をさらけ出した。
「そのとき」とはいつを指すのだろうか。「Ⅸ」の「その声を追つて野に出れば」を受けるのだろうか。「とき」を特定することは、あまり意味がないかもしれない。出雲に帰省し、出雲について思いめぐらすとき、と考えるだけで十分な感じがする。
興味深いのは「本物の出雲」ではなく、「贋の出雲」と入沢が書いていることだ。「本物」はいつでもひとつである。「贋物」はひとつではなく、それがつくられる数だけ存在する。このとき、もうひとつ興味深いのは、入沢がその複数を「二重になり、三重になり」と書いていることだ。「贋物」はひとつひとつ独立しているのではない。重なり合っているのだ。何らかの重なり、共通するものを持っている。「贋」であることは「本物」と共通のものをもたなければならない。
これは何を意味するのだろうか。
「贋」は「本物」のある部分を土台にして、そこに誰かが何かを付け加えることによって成立していることを意味しないだろうか。「本物」を利用して、自分にとって都合のいいこと、自分の思いを託しやすい物をつくりあげていく。「贋」はそんなふうにしてできなあがっているのではないのか。
出雲、その風土記・神話。それ自身が多くのものの寄せ集めであると入沢は書いているが、その寄せ集めに、入沢はさらに『神曲』を、あるいは『月に吠える』を重ね合わせ、新たな風土記(神話)、入沢版「風土記」(神話)をつくりあげる。入沢の「風土記」(神話)は本物ではない。「贋物」である。「贋物」であるからこそ、そこに入沢自身の思想(思い、願い)が存在する。
「贋」とは、それをつくりあげる人間の「思想」でできあがっているのだ。「贋」こそ、「思想」なのだ。
*
ⅩⅡの部分。鏡文字で書かれた部分がある。反転させて引用する。
そうだ 出雲は 三つの顔を持つ
た巨大な生き物だつた
「三つ」。一つは何か。ふたつ目は何か。三つ目は何か。それを特定しても、それは便宜上の特定にすぎないだろう。三つあることが重要なのである。一つはことばをもたない風土そのもの。土地、空気、山河そのもの、そしてそこに生きている人間そのもの。もう一つは、その風土を語ったことば、風土記、神話。さらにもう一つは……。それは入沢がことばにした出雲である。入沢が語りなおした「風土記」である。
詩とは何か、文学とは何か。入沢は語りなおすことだと主張したいのだと思う。詩集の「あとがき」で入沢は書いている。
私の力点は、「作品を成立させること」にではなく、「作品とは何かを問うこと」にかかっていた。
作者のことばをそのまま鵜呑みにしていいのかどうか、場合によっては違うだろうけれど、入沢はここでは正直に語っていると思う。入沢は作品とは、ある作品を語りなおすことだと言っているのだ。出雲風土記(神話)を語りなおすことが作品だ。語りなおすとき、そこには「誤読」が入り込む。あることばを別のことばと勘違いする。「出雲風土記」(神話)に書かれていることばを『神曲』や『月に吠える』の文脈でとらえなおすこと、あるいはそうした作品の視点で突き動かすことは「誤読」である。
「誤読」が作品を生み出すのである。