詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ18)

2007-05-12 23:13:16 | 詩集
 入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』(1968年)。
 Ⅹの部分。

そのとき、贋の出雲は、ぼくの前で、決定的に二重になり、三重に
なり、無数の姿をさらけ出した。

 「そのとき」とはいつを指すのだろうか。「Ⅸ」の「その声を追つて野に出れば」を受けるのだろうか。「とき」を特定することは、あまり意味がないかもしれない。出雲に帰省し、出雲について思いめぐらすとき、と考えるだけで十分な感じがする。
 興味深いのは「本物の出雲」ではなく、「贋の出雲」と入沢が書いていることだ。「本物」はいつでもひとつである。「贋物」はひとつではなく、それがつくられる数だけ存在する。このとき、もうひとつ興味深いのは、入沢がその複数を「二重になり、三重になり」と書いていることだ。「贋物」はひとつひとつ独立しているのではない。重なり合っているのだ。何らかの重なり、共通するものを持っている。「贋」であることは「本物」と共通のものをもたなければならない。
 これは何を意味するのだろうか。
 「贋」は「本物」のある部分を土台にして、そこに誰かが何かを付け加えることによって成立していることを意味しないだろうか。「本物」を利用して、自分にとって都合のいいこと、自分の思いを託しやすい物をつくりあげていく。「贋」はそんなふうにしてできなあがっているのではないのか。
 出雲、その風土記・神話。それ自身が多くのものの寄せ集めであると入沢は書いているが、その寄せ集めに、入沢はさらに『神曲』を、あるいは『月に吠える』を重ね合わせ、新たな風土記(神話)、入沢版「風土記」(神話)をつくりあげる。入沢の「風土記」(神話)は本物ではない。「贋物」である。「贋物」であるからこそ、そこに入沢自身の思想(思い、願い)が存在する。
 「贋」とは、それをつくりあげる人間の「思想」でできあがっているのだ。「贋」こそ、「思想」なのだ。



 ⅩⅡの部分。鏡文字で書かれた部分がある。反転させて引用する。

そうだ 出雲は 三つの顔を持つ
た巨大な生き物だつた

 「三つ」。一つは何か。ふたつ目は何か。三つ目は何か。それを特定しても、それは便宜上の特定にすぎないだろう。三つあることが重要なのである。一つはことばをもたない風土そのもの。土地、空気、山河そのもの、そしてそこに生きている人間そのもの。もう一つは、その風土を語ったことば、風土記、神話。さらにもう一つは……。それは入沢がことばにした出雲である。入沢が語りなおした「風土記」である。

 詩とは何か、文学とは何か。入沢は語りなおすことだと主張したいのだと思う。詩集の「あとがき」で入沢は書いている。

私の力点は、「作品を成立させること」にではなく、「作品とは何かを問うこと」にかかっていた。

 作者のことばをそのまま鵜呑みにしていいのかどうか、場合によっては違うだろうけれど、入沢はここでは正直に語っていると思う。入沢は作品とは、ある作品を語りなおすことだと言っているのだ。出雲風土記(神話)を語りなおすことが作品だ。語りなおすとき、そこには「誤読」が入り込む。あることばを別のことばと勘違いする。「出雲風土記」(神話)に書かれていることばを『神曲』や『月に吠える』の文脈でとらえなおすこと、あるいはそうした作品の視点で突き動かすことは「誤読」である。
 「誤読」が作品を生み出すのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川朱実「保健室の空」

2007-05-12 17:08:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 北川朱実「保健室の空」(「X’ROAD」2、2007年05月05日発行)。
 保健室登校。北川がそういう生徒であったかどうかはわからないが、最後の2連がとても印象に残る。

--時間を生きるのではなく
  時を生きてゆきなさい
保健の先生はやわらかな声でそう言ったけれど

キタガワくーん
かたくてもろい心はいつも何かに遅刻するから
死んだ担任は
今日も出欠を取れないでいる

 「時間」と「時」の違いは、この詩では説明されていない。説明されていないので、私はつまずく。何か違いを暗示するものはないだろうか、と考える。「遅刻」が何かの手がかりになるだろうか。「死んだ」が何かの手がかりになるだろうか。
 「遅刻」は「時間」に遅刻するのだろうか。「時」に遅刻するのだろうか。「かたくてもろい心」はどこにいたために遅刻するんだろうか。「時間」を生きていたために遅刻するんだろうか。「時」を生きていたために遅刻するんだろうか。
 たぶん「時」を生きていたために、「時間」に遅刻するんだろう。「時間」に区切りはあるけれど「時」にはくぎりがない。というか、くぎりをとりはらって、つまり何かと何かの「間」(「時間」の「間」)--その「間」をつくりだす時の一点の区切りをとりはらってしまったのが「時」なのだろう。区切りのない「間」そのものが「時」であり、「「時間」は「時」と「時」にはさまれたもの、限定されたものだろう。
 限定された「間」ではなく、限定されない「間」(ただの広がり)を生きなさいと保健の先生は言ったのかもしれない。
 保健室には始業(時)と修業(時)がない。そこでは生徒はただの「間」を、「時」を生きている。息抜き、とは、そういう「間」を生きることだ。保健の先生のことばは、そういうふうに生きてもいいんだよ、と言ったのだろう。
 そういうことは、しかし、保健室登校をしていた「時」にはわからないことだろう。わからないけれど、そこにあるのが「時」と「時」にはさまれた「時間」ではなく「時」そのものだからこそ、生徒はやわらかく包まれ、自分のかたい心がほぐれていくと感じるのかもしれない。
 北川は、そういうことについて「遅刻」して、つまり、ずーっと遅れて、今、気がついたということかもしれない。気がついたからこそ、今、遠い遠い過去を、たぶん高校時代か中学時代の「時」を呼び出しているのだ。

 「時」。今という「時」と過去という「時」が重なる。そのとき「時間」ではなく、ただ「時」の広がりだけがある。その広がりのなかに「詩」がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする