詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『オカルト』

2007-05-03 15:22:25 | 詩集
 秋山基夫『オカルト』(思潮社、2007年03月31日発行)。
 「浮遊」の書き出し。
 
深夜のオフィス、納税書類をシコシコ作成するわたしの背中
のあたりから、わたしの輪郭が起き上がり、空中に浮き上が
る。子供がクレヨンで描いたパパの絵から、輪郭の線だけが
動き出し画用紙の外へ出ていくように、わたしの輪郭がわた
しを離れ、応接セットをふわふわ越え、目隠しの衝立をふわ
りと超え、ドアの鍵穴を一本の針金になって抜け出す。

 読みながら(黙読しながら)、あ、これは声をとおして聞く作品なのだ、と思った。黙読ではうるさいことばの繰り返し、「起き上がり」「浮き上がり」「ふわふわ越え」「ふわりと超え」(越え、のミスプリントだろうか)も、声をとおして聞けば、繰り返しが単なる繰り返しではなく、ことばを聞き手に定着させる効果となるだろうと思った。
 「あとがき」を読むと、秋山の作品は朗読グループで朗読の形で発表されたらしい。たしかに、この作品には、声に出すことで鍛えられた文体がある。
 「シコシコ」というような俗語オノマトペも俗語ゆえに聞き手を引き寄せるだろう。声そのものが肉体であるから、その肉体の力で、聞き手の肉体に触れる。「頭」で考えるよりも、「肌」で感じる響き--というかリズムが聞き手を異界へ誘う。
 その、声を利用した文体、声ならではの表現というものもある。
 2連目。

輪郭に去られて、わたしはグニャグニャになった。
越前クラゲ二個分のゼリー。透明な実質。試しに手を突っ込
んでみると、そこに手を突っ込めるひんやりした何かがある
ことがわかる。

 「手を突っ込んでみる」の主語は誰? 「わたし」ではない。「わたし」は輪郭を失って「グニャグニャ」になっている。そこへ手を突っ込めるのはわたし以外の誰かである。たとえば聞き手である。誰でもない存在、聞き手がふいに作品のなかへ、秋山のことばに誘い込まれて紛れ込む。こういうことが可能なのは、それが語られることば、聞かれることばだからである。「声」という肉体を共有することで、作者と聞き手が自在についたり離れたりするのだ。
 そうしたついたり離れたりの動きを媒介するものが、ここでは「手」という肉体である。あるいは、この作品が書かれた当時話題になった「越前クラゲ」である。「グニャグニャ」というオノマトペである。聞き手の現実、身近な間隔を作品の中に導きながらことばを動かしてゆく。

 「青蠅」におもしろい部分がある。

わたしには形も色も温度もない。
痩せこけた青鬼、わたしはこんな姿で見えるのだろうか。見
えたものは仕方がないが、わたしには自分の姿が見えないか
ら、どうしようもない。
わたしはわたしがくっついたものの形になり、色になり、温
度になる。
わたしは何ものでもない。わたしはあなたがいなければ、い
ない。

 「声」は聞く人がいなければ存在したことにならない。聞き手を前提として、聞き手と交錯する「かけ」のようなものが、この詩集の秋山のことばにスピードを与えている。振り返らない。突き進む。突き進むスピードで聞き手を誘い込み、異界を出現させようとする試みだ。
 「声」の詩集として出会ってみたかった、という思いが募った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入沢康夫と「誤読」(メモ12)

2007-05-03 14:24:26 | 詩集
 入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』(1962年)。
 「17」。

島には三人のテロリストがいた。一人は八十九歳のかじ屋だった。後の二人は銀行家の長男と二男だった。彼らは夜毎、廃墟になった宮殿の玉座あたりに集って声をひそめて語り合うのだった。島の朝刊の存在を抹殺しようと。ところが朝刊の所在はありまにも不確かだった。そのはずである。島には長官なぞは久しい以前から存在していなかったのだから。しかし彼らがテロリストであるためには長官の存在は基礎条件であった。長官の不在を云々することは血の盟約によって禁じられていた。

 奇妙な論理のねじれがある。長官がいないなら、長官を殺害することは不可能である。だからその不在を語り合うことは禁じられている。長官が不在ならテロそのものが不可能であり、テロが不可能ならテロリストは存在しようがない。それでもテロリストがいる。
 ここでは「テロリスト」という「思い」(夢)が語られている。あるいはテロリストを夢みる権利が語られている。人はどんな夢でも見る権利があり、その夢のためなら「事実」をねじまげることもありうる。
 「テロリスト」の夢というより、「テロリスト」への夢が語られている。あるいはここで語られているのは、人間の、こころの動きの「ありよう」である、というべきなのか。こころの「構造」、何かを夢みるとき、どんなふうにその夢を構成するか、その「構造」が語られている。

 「19」は

映画を見に行く人びとは、映画の中の自分を見に行くのだ。

とはじまる。これは映画の登場人物の行動をとうして自分の思いを確認するというような意味ではない。抽象的な意味、抽象の中にある「構造」について語っているのではない。 詩は次のようにつづく。

映画はすべてドキュメンタリーであり、ようするに街頭風景なのだ。映画館専属の撮影技師が、週に一度、街の広場に出てアイモを廻す。そて二時間たつと自分の部屋にかえってフィルムを現像し、それを映写技師にわたす。これがその週の演し物として上映されるのだがそこに映っている人びとは喜んで、家族知人をひきつれて見に来る。

 「他人」を見ない。ただ自分を見る。見つめかえす。ここに「夢」の秘密があるかもしれない。
 「19」に描かれていたテロリストもそうだが、この入沢の作品では、自己と他者が出会い、そこから何かが変っていくということはない。関係がかわらないだけではなく、登場人物のこころそのものも変わらない。こころは変わらず、かわりにこころが彼の周辺を「誤読」し、何かがかわったと勘違いする。
 「誤読」とはそうしたものだ。
 何かを正確に判読する--そうすると、それまで自分を支えていた「基盤」のようなものが成り立たなくなる。「誤読」とは自分の考えの基盤を変更しないための「方法」である。「誤読」とは「創造・想像」なのだ。ここにはないものをつくりだしてゆくことなのだ。
 入沢は、この作品では、ここにはないもの、現実にはない「エンゲルハンス」島を想像・創造し、そこで人間を動かしてゆく。想像力のなかで、ことばはどんなふうに動いてゆけるか、想像力の「構造」はどうなっているか、それを入沢は探っている。

 「28」。
 ランゲルハンス氏は夜中に島に上陸し、妻と情人を殺して海の彼方へ逃げて行った。想像力はそこまで「物語」を創造し、自己へとかえってゆく。かえってくる。

さすがの令嬢もすっかりおびえ、少しも僕のそばをはなれようとしない。彼女は一人ぼっちでとりのこされたのだ。当局は、令嬢と結婚してランゲルハンスの由緒ある家名を存続させよと僕に命令してきた。ところが僕はあの死体を見た時以来、みぞおちから背中にかけて変な痛みがひろがって、どうしても取れないのだ。

 作品は「1」へと突然戻ってしまう。自己完結してしまう。「僕はいきりなみぞおちあたりにはげしい痛みを感じて意識を失った。」その「痛み」へと収束してしまう。
 すべては糖尿病による失神のなかで起きたことがらになってしまう。
 想像・創造は自己を解放するための方法なのである。想像・創造世界で、かなわない夢、ただし彼にとっては絶対必要な夢を見る。ここにはないものを、ことばを利用して出現させる。

 ことばを利用する。「エンゲルハンス氏の島」自体が、ことばを利用した想像・創造だった。エンゲルハンス、膵島。ことばのなかにしかない島。
 そうした作品を描きながら、入沢は、ことばとは何かを探っている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする