詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ギャヴィン・フッド監督「ツォツィ」

2007-05-23 22:33:30 | 映画
監督 ギャヴィン・フッド 出演 プレスリー・チュエニヤハエ、テリー・ペート

 主人公の少年ツォツィは一度嘘をつく。「犬を二度蹴ったら背骨が折れて歩けなくなった」と。しかし、実際に犬を蹴ったのは少年ではなく父である。少年はそれを目撃した。犬を蹴る父を、その暴力を、というより、蹴られて歩けなくなり、それでも腹這いになって逃げる犬を見た。少年が最初に体験した暴力が自分の体と他者の体のぶつかりあいではなく、自分自身の肉体とは遠いところ、間接的なものであったということは、この映画ではとても重要である。少年は暴力を振るったとき、自分自身の体も痛みを感じるということを最初に体験せず、単に相手が痛みを感じ、動けなくなるということを、いわば知識として知ったのだ。肉体の知恵ではなく、知識として知った暴力。間接的な暴力--自分自身は無傷である、という間接性ゆえに、いっそう残酷になる。暴力に対して、力の弱いものは服従する--そういうことを知識として知ったために、より残酷になる。(この犬のシーンは「おまえは捨て犬か」と言われて、とっさに暴力を振るうシーンの下敷きにもなっている。)
 最初の強盗のシーン。ツッツィは襲う相手を選ぶが実際に暴力を振るうのは仲間だ。最初の殺人を自分の手で、肉体で体験するではなく、他人の肉体をとおして体験してしまう。ツォツィは暴力、殺人を間接的に体験するがゆえに、人間としての感覚がおかしくなったといえるかもしれない。殺人をおかしてしまったために仲間のひとりは嘔吐する。彼は自分では肉体的に直接殺人を犯したわけではないが、人間の肉体の接触の意味を知っていたので、他者の肉体からいのちを奪うということがどういうことか肉体として反応してしまったのだ。その少年に肉体の意味を教えたのは、実は、ほかならぬツォツィであったことは、のちにツォツィのことばをとおして明らかにされる。ツォツィはかつて少年を介抱したことがある。汚れている少年をきれいにし、助けたことがある。少年はそのとき肉体と肉体との接触には暴力以外のものがあることを直接的に知ったのである。暴力以外の肉体の接触があることを知っている人間には暴力は振るえない。決定的な暴力は実行できない。
 ツッツィが実際に暴力を振るうのは、この嘔吐する少年に対してである。(この映画では。)ツォツィは名前を少年に問われる。「ツォツィ(不良)ではないだろう。両親がつけてくれた名前があるだろう。おまえは捨て犬か」。ツォツィはこのことばに逆上する。自分は暴力を振るわれて死んでいくあわれな犬にはならない、という思いがある体。その反動として暴力を振るってしまう。そして、はじめて無抵抗なものを暴力で支配することがどういうことかを知る。信頼していた仲間が見つめかえす悲しい目が、ツォツィのこころにささる。
 ツォツィにもこうした肉体のぶつかりあいの前に、肉体と肉体が触れ合う体験をする機会はあった。HIVに苦しむ母。そって手を伸ばす母。その指に触れる機会があった。それを父に禁じられ、かわりに犬に対する暴力、二度、犬を蹴り、半殺しにする様子を見てしまった。
 ここからどうやって肉体を取り戻していくか。肉体と肉体の接触を取り戻して、人間として生まれ変わるか。これがこの映画のテーマである。ツォツィは車を強奪し、その車のなかに偶然いた赤ん坊を誘拐してしまうが、その赤ん坊との接触がツォツィをかえる。何も知らない赤ん坊がツォツィののばした指先をつかむ--その瞬間にツォツィが生まれ変わる。ツォツィは、その赤ん坊のように、HIVの母の指をつかみたかった。触れるのではなく、つかみたかった。つかんで、はなしたくなかった。母は瀕死である。その瀕死の母にさえ、幼いツォツィは甘えたかったのだ。そして瀕死の母は母でツォツィを甘やかしたかった。この「甘やかし」というのは、そばにいるよ、いっしょにいるよ、と告げることと同じである。何ができなくてもいい。ただいっしょにいるよ、いっしょにいるから安心して、と告げることである。自分の肌の温もりはお前の肌の温もりと同じものだよ、と告げることである。
 いっしょにいること、肌と肌を接すること、ことばを越える何かを触れ合わせること--そういうことの大切さに気づいたツォツィが赤ん坊を両親へかえすシーンは感動的だ。自分のそばにおいておきたい、いっしょに生きたい。そういう望みを抱きながら、そういう望みを抱くからこそ、赤ん坊を両親へかえそうとする。子供にとって両親の愛情がどんなに大切なものであるかはツォツィ自身が知っている。母親の愛情がツォツィをつつんでいたら、今のツォツィは違っていたのである。手放したくない。でも手放さざるを得ない。その矛盾した行為のなかで、ツォツィは生まれてはじめての涙を流す。生きているいのちへの涙を流す。
 かなしいということばは日本語では「愛しい」とも書くが、その「かなしい」涙を流す。愛犬が父に蹴られて死んでいくのを見たときの涙は悲しい涙だったが、赤ん坊を両親へかえすときの涙は「愛しい」涙である。これは、とても美しい。
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大澤武「案内人の居ない裏山で」

2007-05-23 21:15:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 大澤武「案内人の居ない裏山で」(「SOOHA」創刊号、2007年03月15日発行)。
 句読点の意識が非常にしっかりしている文体だ。

すべてが終わって不可解に静止したその姿勢から、縦横しっかりと空箱の遠い隅にも届く視線を送って、それまでを振り返る、曲がりねじけたものたちは、土地言葉の滑らかな藤谷戸の朝市に出回らないうちに、まだ明け切らない初々しい薄闇に捨て置かれ、正当性を与える刻印や行間の油断を嫌う物語化の跋扈するこの地では、解けない縺れは観念が先行する視点とセットにされて、ごくごく日常の偶然事を畸形とか、パラドックスとか呼んでいた。

 句点まで追いかけて読むと何のことかわからない。入り組んだ何かを書いている、書こうとしているのだろうと感じる。その一方で、読点ごとの文節自体は非常に明瞭である。文節ごとを明瞭にし、文全体では全体像がわからないものになるように書かれている。
 大澤にとって、世界とは、そういうものなのだろう。文節を断片と読み替えれば、世界の断片断片はそれぞれ明瞭である。そして、その断片が明瞭でありすぎることによって全体がぎくしゃくする。世界の全体を納得できるように把握するためには、人間はどこかで「省略」を必要とする。見えているけれど見なかったことにして全体を優先するという思考の働きが必要だ。しかし、大澤はそういうことをしない。見えているものをより見えるように断片に近付いてゆく。肉眼を断片の対象にすりつけるようにして見つめる。そして、次の断片へ、さらに次の断片へと移ってゆく。全体をまとめる何かは、肉眼を対象に近づけすぎず、ちょっと離れて見るということも必要なのだが、そうした対象と距離を置くことを拒んでいる。そうした視線の動き、断片から断片への移りを句点「、」が正確に再現している。その正確さ、その強靱さが大澤の詩の魅力だ。
 大澤も同じ号で「秋空の広がりが欲しい その気分なのに」という作品を書いている。こちらは行分け詩である。その1行1行は、散文詩の読点ごとの文節のように独立している。大澤は同じ方法で散文詩と行分け詩を書いている。行分け詩の方が1行1行がより独立して感じられるはずなのに、不思議なことに、大澤の場合、行分け詩の1行よりも散文詩の1文節の方が私には独立性が強く感じられる。散文詩の方が、文節がざらざらし、ことばが屹立して感じられる。空白の効果が、たぶん大澤の詩の場合、逆に働くのだろう。行分け詩の1行がつくりだすまわりの空白、その空白のなかに1行の独立性が広がってゆく。散文詩の場合、文節がひしめき合い、そのひしめく力で文節が押されて隆起してくる。そんな感じがするのだ。
 句読点の意識が明瞭なので、こうしたことが可能なのだと思う。強靱な句読点意識、文節の意識が、文節のエッジを鋭くするのだ。とてもおもしろいと思った。


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