石川逸子「外はみぞれ」(「兆」134、2007年05月07日発行)。
不思議な詩である。
たとえば田舎の葬儀。葬儀のあとの宴。そんな風景を思い浮かべる。不思議というのは、顔と集まっている人、女の子の関係だ。顔(一つ)、人(おおぜい)、女の子(一人)。人だけが複数なのだが、その複数が複数に感じられない。顔、人、女の子が対等の位置を占めている。さらに、これに「外」の風景、自然が、また「一」として加わる。その瞬間、「外」はそのまま「一」なのに、「座敷」のなかの顔、人、女の子はそれぞれが自己主張するのではなく、すーっとかたまって「一」になっている。
存在の区別がなくなり「一」になる。
死ぬとはこういうことなんだな、とふっと気づかされる。
「死」は、たの作品では「顔」になっているが、それはおおぜいの人(死者の知り合い--近い関係、遠い関係をひっくりめて、おおぜいの人)のなかに消えていく。悲しみだけではなく、笑いや、ののしりという「関係」のなかに吸収されていく。そういうことがわからない女の子はポツンとその動きを見ている。死の実感もないまま、ただ見つめている。女の子にとって死はわからないものなのだけれど、そうやって見つめたという記憶が、ある日、突然、死とは何かという「実感」として、やってくる。
たとえば、外でごおっと風が吹き、みぞれが降り出した瞬間に。あ、この風景は、あのときの風景だ。誰かが死んだ日だったと思い出す。その日に、瞬間的に帰る。時間が消える。
突然、今と過去の区別がなくなる。そういう一瞬、まざまざと死を見た記憶のなかにひきこまれていく感じ。時間が「一」になってしまう感じ。
不思議な詩である。
ひろい座敷の奥に
かかっているのは
掛け軸かとおもえば
ひとの顔で
なにかを叫びたそうに
ぐらぐら ゆれている
座敷には大勢集まって
宴たけなわ
笑う者 踊りだす者
ののしる声 歌う声
皿のふれあう音
さまざまのさんざめき
隅に 女の子一人
ポツンと ゆれる顔をみている
外はみぞれ
ごおっと風が吹き出した
たとえば田舎の葬儀。葬儀のあとの宴。そんな風景を思い浮かべる。不思議というのは、顔と集まっている人、女の子の関係だ。顔(一つ)、人(おおぜい)、女の子(一人)。人だけが複数なのだが、その複数が複数に感じられない。顔、人、女の子が対等の位置を占めている。さらに、これに「外」の風景、自然が、また「一」として加わる。その瞬間、「外」はそのまま「一」なのに、「座敷」のなかの顔、人、女の子はそれぞれが自己主張するのではなく、すーっとかたまって「一」になっている。
存在の区別がなくなり「一」になる。
死ぬとはこういうことなんだな、とふっと気づかされる。
「死」は、たの作品では「顔」になっているが、それはおおぜいの人(死者の知り合い--近い関係、遠い関係をひっくりめて、おおぜいの人)のなかに消えていく。悲しみだけではなく、笑いや、ののしりという「関係」のなかに吸収されていく。そういうことがわからない女の子はポツンとその動きを見ている。死の実感もないまま、ただ見つめている。女の子にとって死はわからないものなのだけれど、そうやって見つめたという記憶が、ある日、突然、死とは何かという「実感」として、やってくる。
たとえば、外でごおっと風が吹き、みぞれが降り出した瞬間に。あ、この風景は、あのときの風景だ。誰かが死んだ日だったと思い出す。その日に、瞬間的に帰る。時間が消える。
突然、今と過去の区別がなくなる。そういう一瞬、まざまざと死を見た記憶のなかにひきこまれていく感じ。時間が「一」になってしまう感じ。