詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「道」

2007-05-13 22:45:50 | 詩(雑誌・同人誌)
 藤維夫「道」(「SEED」12、2007年05月10日発行)。
 2連目が印象深い。

山へ行くと枝が針金のように鋭く刺さって
崖崩れに傾いている
こころに沁みるときの勢いもあって
地にふかくつながっているのだから
もとへもどる場所を探して
微笑みをかえしてくれればいいのだが
崖っぷちのいつもの空の方を見る
動揺も孤独もないがあまりにもわかりきった道である

 「こころに沁みるときの勢いもあって」。主語は何だろうか。「枝」か。「枝」につながる木だろうか。木と仮定すると、「地にふかくつながっているのだから」のつながっているものは木の根になるだろうか。
 具体的なことはわからない。
 わからないけれど、私は一本の木を思い浮かべ、その剥き出しの枝、見えない根を思う。そして「こころに沁みるときの勢いもあって」の「勢い」ということばに誘われて、生きているいのちというものを思う。
 崖崩れの方へ傾いている木。それは生きているのか。死んでいるのか。1連目に出てくることばを借りていえば「まだ生きたかっこうのまま」である。その木が、あるとき、その木を見つめていのちの勢いを感じたときのように、もう一度勢いをとりもどして大地にふかく根を張りなおし、生きてほしいと思っているのだろうか。枝が緑の葉を生い茂らせ「微笑みかえ」すように輝いてほしい願っているのだろうか。

 あるいは「こころに沁みるときの勢いもあって」というのは、感傷的になっている藤自身を反省して見つめなおすことばだろうか。
 夕暮れ、「はやく死んでしまったひとのことがしきりに思い出され」、その人が「生きた格好のまま」どこかで「途方にくれ」ている(1連目)と想像したために、何もかもが「こころに沁みる」、そういう感傷的な勢いで、木はまだ生きていると思ったと自分の心を見つめなおしているのだろうか。

 わからない。わからないまま、藤のことばと私の意識がつながる。そして、そのとき、そこに一つの風景がある。

崖っぷちのいつもの空の方を見る
動揺も孤独もないがあまりにもわかりきった道である

 「動揺も孤独もない」。風景は感情を超越している。そういうものに感情はきれいさっぱり洗われて、清潔な状態に戻る。
 この感じ、透明で、感情が吹き払われていく感じが、冬の野の、あるいは冬の山の美しさとして目の前にあらわれてくる。

 3連目は、私には、それが必要なものかどうかわからない。きれいさっぱり吹き払われた感情が、もう一度、感傷にまみれる。そんな感じがする。
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入沢康夫と「誤読」(メモ19)

2007-05-13 12:07:29 | 詩集
 入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)。
 『マルピギー氏の館』のための素描。「マルピギー氏の館」を想定し、そこへ向けてことばを動かして行く。『ランゲルハンス氏の島』のように「マルピギー」にも出典があるのかもしれないが、私にはわからない。「5 公理」には「(公理)マルピギー氏の館は実在している。」と書かれているが、こういう「公理」こそ、その館が不在のものである「証拠」かもしれない。
 ことば、想像力についての、おもしろい部分が無数に出てくる。
 「3 導通管」の書き出し。

 だが、これらの推測あるいは想像は、まちがっていないにしても不完
全だ。

 「不完全」。これは「完全」よりも魅力的である。「不完全」であるかぎり、推測、想像のことばはさらに書き加えることが求められるからである。完全を求め増殖することば。増殖することでさらに「完全」な推測、想像から遠ざかって行くことば。「不完全」はことばを増殖させ、ますます「不完全」さを増して行く。「不完全」を完成させるというと言語矛盾に陥るが、入沢が求めているのは「不完全」な「構造」、ことばを誘い込み、増殖させる「構造」である。
 「不完全」と対をなしている、あるいは「不完全」を補足しているのが「6 真実らしさ」である。「らしさ」という表現自体、それが完全ではない、「不完全」なものを含んでいることを暗示している。

 マルピギー氏の館においては、すべての事物は、模造品と現物との中
間にあって浮動している。それ故に、ここで生起する事件はいっさい真
実ではないが、その浮動感によって、事実よりもいっそう真実らしさを
保つという特権を享受している。

 「中間」。このことばが「キーワード」である。このことばを入沢は他のことばに置き換えることはできない。このことばがなければ、この断章は存在できない。「模造品」(贋物)と「現物」(本物)。それの「中間」にあるものとは何だろうか。「意識」である。ある存在を、ある存在として認識する意識である。思いである。感情である。そこにこそ、あらゆる「真実」がある。人間が何かを想像する(思う)ときの「真実」がある。
 人間は、何かを「思いたい」存在なのだ。
 そのときの「思う」気持ち、感情のなかにこそ、人間の「真実」がある。そこで「思われた」何かは、「事実」ではなくても、「真実」として存在する。心情にとっての「真実」。真実としての心情。それが「模造品」(贋物)と「現物」(本物)をつなぎとめる。
 そして、それは確固としていない。「思い」はふわふわ浮いている。動いている。あいまいに揺れている。「浮動感」としてしか存在しない。
 この「浮動感」こそ、「誤読」と同じものだ。

 「誤読」によって生起する事件はいっさい真実ではないが、その「誤読」によって、真実よりもいっそう真実らしさを保つ。

 先の引用を、そう読み替えることができる。「誤読」することができる。「誤読」であるかぎり、そこには事実として真実は存在しない。客観的な真実は存在しない。しかし、「誤読」するとき、心情は真実を告げている。事実がそうあって欲しいという思いの真実がそこには存在している。 
 「真実よりもいっそう真実らしさを保つ」。どこに? 誰が? を補うと、「誤読」の「真実」の在り方がわかる。
 「真実らしさ」は「模造品」(偽物)でも「現物」(本物)でもなく、その「中間」にあるもの、それを見つめている人間(大衆)の心情のなかで保たれるのである。そしていったん保たれると、それが「心情」であるだけに、修正が難しい。
 「真実」よりも「真実らしさ」(真実と信じられたもの)の方が、ことばにのって、どこまでも流通している。流布していく。そして「真実らしさ」が「真実」を凌駕してしまう。

 入沢が書いている「マルピギー氏の館」そものもがそういう構造で成り立っている。マルピギーしの館は真実ではない。しかし、詩のことばになった瞬間から、詩のなかで「真実らしさ」を獲得する。読者にとって大切なのは、マルピギー氏の館が真実かどうか(実在するかどうか)ではなく、真実らしく思えるかどうか、なのである。
 あらゆる文学は、そこに書いてあることが真実かどうかではなく、真実らしく感じられるかどうかなのである。真実であっても、真実らしく感じられなければ、それは文学ではない。こころに真実として響いてくるなら、それが過去のことであれ、未来のことであれ、起きたことであれ、起きなかったことであれ、どっちでもいいのだ。
 文学は、ことばを読んだ人間のこころのなかでの出来事なのだから。

 人のこころをひっぱっていくのは「真実」ではなく、「真実らしさ」であり、その「らしさ」は常に「誤読」のなかにある。
 この「誤読」、そして「誤読」をふくむ「贋」に対する偏愛のようなものが入沢には存在する。「8 植物たち」は象徴的な断章だ。

 にせおきなぐさ、やまあさもどき、にせさわそうし、おばおしくさ、
おばさきくさ、ざとうぎし、にせほとずら、とりのあしもどき、さるか
きだまし、まがいおおえみ、くそえびすね、にせあそう、にせこまつな
ぎ、おばいわぐす、えいくさ、にせのしょうこ、みずげんぱく、おばく
まする。それらが時として声を上げる。

 ここに書かれている「植物」はみな「本物」だろうか。偽物だろうか。「にせ」「もどき」「だまし」「まがい」という本物ではないことを強調することばがたくさん出てくる。
 「にせ」「もどき」「だまし」「まがい」。そういうことばは、人間が「本物」と「贋物」を明確に区別していることを意味する。明確に区別するが、同時に、それを否定するわけでもないことを意味するように感じられる。わざわざ「にせ」「もどき」「だまし」「まがい」ということばをつかってでも、本物といっしょにとらえたいのだ。本物と贋物を同時に見つめ、そのなかで心を動かしてみる、ということが人間の一種の「本能」なのかもしれない。そういう「本能」を入沢は、詩のなかで明るみに出そうとしている。

 もっとも、こうした私の感想は「実は何の根拠もない」(「9 祭り」より)ことでもあるのだが……。
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