詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ27)

2007-05-22 15:22:31 | 詩集
 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「校異」を記録したように装った「第三のエスキス」は仕掛けに満ちている。たとえば、「五、」の部分。

漂白された→③みおつくしをちりばめた

 「エスキス」の「みおつくしをちりばめた」は最初は「漂白された」であったものが変更されたと報告されている。「漂白」と「みおつくし」。何の関係もないように見える。しかし「みおつくし」を漢字に書き換えると一変する。「漂白」「澪標」。「漂」は「澪標」の漢字2文字の「へん」と「つくり」を組み合わせたものである。意識の「誤読」ではなく肉眼の「誤読」が隠されている。漢字の読み違えにつられて、ことばが動いた。そういうものも含めて入沢は「誤読」を考えようとしている。人間は「誤読」する。わからないものに出会ったとき、自分の知っているものでことばで間違って読んでしまう。そういう間違いの奥には、人間の意識の、何かをわかりたいという欲望が潜んでいるかもしれない。わからないものをわからないままにするのではなく、わかりたい、納得したい、そうすることで安心したいという欲望があるかもしれない。

《屋〔根〕→(削)》屋根を伝つてどこまでも走つて行く
    (谷内注・かっこ記号は原文は別。表記できないので別のものを代用した。)

 という例もある。

 「漢字」の「誤読」、「漂白」から「みおつくし」への「誤読」には「教養」というか、「文化」の「誤読」がある。ある文化的意識がないとできない「誤読」である。「誤読」とは文化があってはじめて成立するものである。このことは「誤読」が文化的行為、文学的行為であるという意味になる。「誤読」しないのは(できないのは)、文化的・文学的教養がないからである。--これは大変な「逆説」かもしれない。「誤読」してしまう程度の「教養」ではなく、それを上回る「教養」があれば「誤読」は生まれないのだから……。そうした微妙な問題を浮かび上がらせているのが次の部分。
 「第四のエスキス」の「二」の部分。

茂つた薤の露の一つ一つに億千の青い世界が映り、
                 (谷内注・引用はテキストの行分けとは異なる)

 これは「薤露歌」を踏まえている。漢代の葬送の歌。人命のはかないことは、おおにらの上の露のようだと歌う、と「新漢語林」(大修館書店)に書いてある。
 死、そしてそれ以降の世界を前提にすると、「エスキス」の「二、」の最後の部分もよくわかる。

はるか下の下の方に、巨大な星々の都市が浮かんでいる。
                 (谷内注・引用はテキストの行分けとは異なる)

 これは「あなた」のたどりついた天上世界から、宇宙を越える天上世界から、宇宙を眺めた姿である。
 「理想」が、ここでは「誤読」されている。「誤読」という形で「理想」が語られている。「理想」を語るというのも、ひとつの文化・文学である。

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マーク・フォースター監督「主人公はぼくだった」

2007-05-22 14:07:16 | 映画
監督 マーク・フォースター 出演 ウィル・フェレルエマ・トンプソンダスティ・ホフマン、マギー・ギレンホール

 脚本がたいへんすばらしい。ナレーションというのは映画では邪道だと思うが、ナレーションがナレーションでなくなる過程がおもしろい。そして、そのナレーション、たとえば「主人公ハロルド、そのことを知るよしもなかった」という小説のナレーション(第三者の特権的視点)と交錯し、その交錯から、映画(現実)の主人公が実は小説の主人公であり、小説と現実(映画)が交渉しはじめる。ナレーションの問題自体、文学教授のダスティン・ホフマンが語るのだが、このあたりの操作もとても刺激的だ。
 ダスティン・ホフマンは、さらに悲劇と喜劇の違いとか、「主人公は死んでも小説は死なない。傑作のために主人公は死ぬべきだ」というような、声を出して笑わずにはいられないせりふを次々に繰り出す。ダスティン・ホフマンは、笑わずに(あたりまえだけれど)、「私は文学の構造と完成度にしか興味がありません」というような感じをストレートな演技で展開し、この映画にスピード感を与えている。
 作家にかぎらずことばを書く人間というのは、ことばが現実になってしまうという印象に囚われ、書きたいけれど書けない、ということがある。逆に先に書いてしまえば、それはフィクションになってしまい、現実には起きない、だから書いてしまっておく、ということもある。その、奇妙な現実とことばのあいだでの実感を、エマ・トンプソンがいきいきと演じている。交通事故のシーンを書きたくて事故の多い現場へ出向いて事故を待っているシーンの演技などは、思わず笑ってしまう。笑いながら、ひきこまれてしまう。
 エマ・トンプソンが映画の流れを引き止め、ダステン・ホフマンが映画の流れを加速する。その間にあって、ウィル・フェレルが右往左往する。『プロデューサーズ」』でみせたような過剰な演技をおさえ、小説の主人公なのに(映画のなかの主人公でもあるのだけれど)、ストーリーの主人公をやめて逸脱し(たとえばギターに夢中になる)、自分をとりもどしてくという過程もおもしろい。
 そして、そのストーリーから逸脱し、自己を豊かにしていくという部分こそ、実は小説(そして映画)では一番重要な部分、感動的な部分でもある。そういう部分が紋切り型だと小説、映画はつまらなくなる。ストーリーから逸脱していくものだけがストーリーを豊かにする。(この映画のなかの「小説」の部分でいえば、たとえば主人公が書類を整理しているときの音--それを海の音と感じる、というナレーションの逸脱。ナレーションさえも逸脱しないと、紋切り型の駄作になる。)
 文学、映画をふくめ、芸術全般に通じる問題を、笑いーで味付けしながらさーっと流しとったマーク・フォースター監督もいい感じだ。立ち止まり、こってり描写すると、映画が映画ではなくなってしまう。脚本のよさを生かして、演出をおさえて撮っているが、この映画のほんとうの魅力かもしれない。
 文学好きの人のための、文学文学したお笑い映画だけれど、文学に興味がなくても、もしかしたら自分は小説(物語)の主人公で……と夢想したことのある人(自分は捨て子だった、もらい子だったと空想するのと同じように、だれでもそういう経験はあると思うが)なら、その夢の感じを楽しむこともできなます。ちゃんと、そういう「物語」向きに、頑固だけれどなぜか魅力的な女性、マギー・ギレンホールとの恋もあります。と、書いて、いやあ、ほんとうにおもしろい脚本、ていねいに書かれた脚本だなあ、とあらためて思った。マギー・ギレンホールについては書くつもりはなかったのだが、自然に感想に書かされてしまう。登場人物が全員ていねいに描かれているから、ついつい全員についてふれずにはいられなくなる。そういう脚本だ。そういう演出だ。

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佐古祐二『ラス・パルマス』

2007-05-22 11:02:23 | 詩集
 佐古祐二『ラス・パルマス』(竹林館、2007年05月20日発行)。
 「パントマイム」に佐古の詩の狙いが書かれている。

虚空に
てのひらを小刻みに顫(ふる)わせて
蝶を現出させる
舞い上がり遊ぶ様を目で追う
動きにあわせてゆれつづける顔
見えてくる
見えないもの

 佐古にとって詩とは見えないものが見えてくるということなのだろう。見えないものを見えるように書こうという意志がとても強い。たとえば、「幼年」。

ぼくはみた
行水するおんなの裸を
軒の鬼灯(ほおずき)は風にゆれ
下町の路地を
時が駆けぬけていった

 見えないものを見えるように書こうとする意志が強すぎて、見えないものを見えたかのように書いてしまっている。「時が駆けぬけていった」。これは肉眼では見えない。肉眼で見えないものを見えるかのように書いてしまったために、この作品はありきたりの「現代詩」になってしまっている。見えないものは見えないままに書くことが大切なのだ。見えないのは何が邪魔をしているために見えないのか--それを書くということが、見えないものが見えてくることにつながる。
 「十月の空」は美しい。

長の入院から解き放たれた
ある晴れた日のこと
飛行機雲がひとすじ伸びている
いずれは
ほどけて消えるさだめなのだが
いま
それはたしかにぼくの頭上にある
木漏れ日ゆれて
金木犀の香が運ばれてくる
ぼくは気づく
ほんとうは
ほどけて消えるのではなく
この美しい世界に
とけこんでいくのだと

 「ほどけて消えるのではなく」「とけこんでいく」。とけこんで何かが見えなくなるということは肉眼で体験できる。たとえば、塩、あるいは砂糖。水のなかにいれる。白く見える。完全に溶けてはいない。水をぐるぐるまわす。白い粒子がだんだん小さくなり見えなくなる。溶けたのだ。こういう肉眼の体験は誰もがしていることだろう。そうした肉体の、肉眼の体験をくぐることで、ことばは確実なものになる。

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