詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「並んでいる」

2007-05-26 15:13:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「並んでいる」(「青い階段」83、2007年04月01日発行)。
 とても不思議な詩である。

いすが
並んでいる
原っぱの真ん中
背もたれの上に
小さな頭
みな
お行儀よく
前をむいて
たんぽぽが咲いている
綿毛がとんでいる
誰かが
節をつけて歌いはじめた
たんぽぽ
たんぽぽ
ひとり増え
ふたり増え
声をそろえて
合唱隊みたい
誰かふりかえってよ
近づいても
遠くから
見ているように
小さい
誰もふりむかない
あしたも
あさっても
しあさっても
綿毛のはりついた空が
もえ
授業中の窓がひろがって
いす

 最後の4行を何度も読み返してしまう。「もえ」というのとは、最近の流行語の「萌え」の「もえ」だろうか。
 坂多は、それに完全に同化してしまっているわけではない。それを少し離れてみているということかな?
 なかほどの「合唱隊みたい」は、坂多の見ているものがほんとうは「合唱隊」ではないことを明かす。「誰かふりかえってよ」は坂多のみつめているものが、向こうの方では坂多を気にしていない(無視している)ことを明らかにしている。
 これが坂多と「萌え」の関係? 
 「近づいても/遠くから/見ているように/小さい」。その頭が夢中になっているものと坂多は重なり合わない。その頭と「空」がいっしょになっているのをただみつめる。
 そして。
 「授業中の窓がひろがって/いす」と突然、「いす」にもどってきて、萌え」の世界と坂多の現実が完全にくっつく。「いす」という最後の1行を読んだ瞬間、また書き出しの「いすが」に引き戻され、ぐるぐると同じ所をまわってしまう。

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入沢康夫と「誤読」(メモ30)

2007-05-26 11:43:56 | 詩集
 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「第九のエスキス」に私は困惑する。その「一、」の文体、そこに書かれていることがらが、それまでの「エスキス」とは異なる。本文はルビ付きだが、ルビを省略して引用する。

詩碑の裏側から、甲高い嗤ひ声とともに立ちのぼる苔水晶
の雲。その底面の鉤に吊るされ、茶色の幟のやうにたなび
いてゐる二重の夢--昨日までの私たちにとっての、かけ
がへのない目当。
  (谷内注・「苔水晶」のルビは「モスアガード」)

 「あなたの足あとを辿つて(しばしばは逆に辿つて)」「あなたを追ふ(あるいはあなたを迎へる)」「あなたたちに追はれる(あるひはあなたたちを迎へる)」「あなたに追はれる(あるいはあなたを迎へる)」というふうに変遷してきた関係がここでは消えている。
 消えながら、しかし不思議な痕跡を残している。「二重の夢」。
 「かつて座亜謙什と名乗った人」の作品を追う。視点をかえて「かつて座亜謙什と名乗った人」が追われる立場から追う人を見る。その「二重」の追跡。「二」は最小限の複数だが、その複数であることに、そして複数が「重」なることに、入沢の「誤読」の基本がある。
 書かれたことばは常に一つである。しかし、書かれたことばが読まれたとき、その「一」は「書かれたことば」と「読まれたことば」に分裂し、「二」になり、「二」になりながら「重」なる。「二重」になることで動いてゆく。揺れる。
 そこに可能性(夢)がある。いま、ここにはない夢、実現されていないけれど、実現されることを願う何か、願われている何かがある。夢はここに現実にあるものではない。だから肉眼では見ることはできない。何かを見間違え、その瞬間に、見たと錯覚する。「誤読」する。その「誤読」のなかにあるものが、夢であり、それは「二重」の干渉によって引き起こされる「ことばの物理学」の世界である。--この「ことばの物理学」の「構造」を解きあかしたい、というのが入沢の根本的な思いだろう。(以前、ことばの数学、ことばの数式という表現をつかったが、数学と物理学は、基本的に同じものである。)

 「第九のエスキス」は、「反歌」のようなものだろう。先行する「長歌」のエッセンスを照らしだす「鏡」のようなものである。
 鏡もものを映す。しかし、その鏡をとおして見る姿は「逆像」である。「あなたの足あとを辿つて(しばしばは逆に辿つて)」につかわれていた「逆」、その姿。正像と逆像。その「二重」のなかで、私たちは、たとえば自分自身の姿をととのえる。「正しい形」にととのえる。「逆」というまちがいをとおして「正しい夢」を見る。--そういう関係が、この「第九のエスキス」で象徴的に描かれている。
 「三、」の部分。その凝縮された三行。(ルビはここでも省略。以下同じ)

馬と雪の匂いのなかで、私たちは立ちすくむ。あなたは知ら
ない。あなた自身が生み落とした子供たちの行方を、子供た
ちの現在の顔はおろか、虫喰ひだらけの画像のことも。

 「あなたの生み落とした子供」とは、「かつて座亜謙什と名乗った人」のことば、彼の作品である。その作品、ことばは時代とともかわっている。たとえば、異稿、校異の発見により、修正される。「決定稿」が「かつて座亜謙什と名乗った人」の「意図(夢)」の推測にしたがって、それを読んだ人によって決定されていく。それは、ある意味では「虫喰ひだらけ」の「顔」(画像)になっているかもしれない。
 そうではあっても、その変形(?)させられた姿があるからこそ、それは「子供」として、永遠に生み落とされ続けてゆくのである。何かを継承することとは、それを守るだけではなく、それを変形させ続けることなのだ。変形させなければ、引き継ぎ続けることはできないのだ。
 これは、ことばの宿命である。その宿命を入沢は「誤読」という形で積極的に受け入れる。
 「九、」の四行。

もつれにもつれた白髪(それはあなた自身の魂)によつて
封印された十重二十重の挑発。いま、一つの時節を終るに
当つて、わづかに身じろぎし、身じろぎしつつ凍えて行く
掟の鶏たち。

 「十重二十重」。ここでは直接的には「かつて座亜謙什と名乗った人」の残した「異稿」(校異)を指すのだろうが、その重なり合う複数が、読者の存在によって増幅され、拡大する。増幅され、拡大されるにしたがって、それは「原型」とは違ったものになるのだが、その違ったものになるということさえも、「かつて座亜謙什と名乗った人」が最初に仕組んだ「挑発」なのかもしれない。
 魅力的なことばの「挑発」。挑発されて、読者自身も分裂し「二つ」になる。それまでの自分とは違った自分になる。「二つ」になりながらも肉体は一つであるから、ほんとうは「二重」である。いくつもの「二重」が重なり合って「十重二十重」になる。そのゆらぎ、その「誤読」の集積のなかに、人間のいのちがある。ことばのいのちがある。
 この「反歌」はそういう姿を象徴的に照らしだしている。


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