詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野木京子「小さな窓」

2007-05-15 16:35:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 野木京子「小さな窓」(読売新聞2007年05月15日夕刊)。
肉体感覚がとてもいい。詩を読むとき、ことばを読んでいるのだが、そのことばが消える瞬間がある。ことばが消えて、笑顔が見えたり、涙が見えたり、作品によって違うのだけれど、野木の作品では肉体、その深々とした厚みがみえた。

沈黙が叫ぶ背を見つめた
時間が壊れてぎいぎいと鳴る世界の
層の隙き間へ音が硬い水のように流れ込み
震えるフィルムが広がる
その人の耳の奥にとどまっていた音は
どこへ立ち去るのか
その人のなかで飛んでいた粒子は
どこで渦を巻くのか
山や樹木や風などの音を連れてゆくその人の
耳を追っていきたかった

 「沈黙が叫ぶ」「時間が壊れてぎいぎいと鳴る」。ここに書かれている「音」は聞こえない。ここに書かれている音は脳のなか、頭のなかにしかない。それなのに、その音が聞こえるような気がする。
 「耳を追っていきたかった」。その、「耳」という肉体が、ありえない音を「耳」ではなく、肉体全体で聞き取る音として浮かび上がらせるからだ。

少し離れてわたしも下ってゆくのだから
悲しまなくてもいいのだと
声を下に落としながら
段の縁に立った

 肉体全体で聞き取る音、肉体が「共感」する音は「悲しみ」さえ含む。感情は「耳の奥にとどまっていた音」かもしれない。
 「音」は体の外にある。
 だが、耳の奥、肉体のなかに、ことばにならず、つまり「ぎいぎい」というようなオノマトペには絶対にならない形で存在する音がある。そういう音を野木は

耳を追っていきたかった

 その1行ではっきりと浮かび上がらせた。
背を追うのでも、影を追うのでもない、「耳を追う」。まるで耳の螺旋階段を下りて、その人の内部へ、こころの奥底へ、悲しみへ降りていくように。

 人は、ことばを追いながら、結局、こころを、肉体のなかの、見えないものを追うのだと思った。
コメント
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