入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』(1968年)。
この詩集もまた「誤読」で成り立っている。「間違えて読む、誤解」ではなく、「事実」とは違うこと、自分の思っていることを他人のことばに託し、読み替えるという意識で成り立っている。入沢が、というより、入沢はそういう「誤読」が日本語の歴史のなかで繰り返されてきたと見ている。
この詩集には膨大な注がついている。「出雲神話」が出雲以外の地方の神話の寄せ集めでてきているというが、入沢のこの詩集のことばも、多くの「出典」を持っている。いわば「出雲神話」と同じ構造を持っている。
そして「出典」を寄せ集めるだけではなく、「縫い合」わせるということが、「誤読」にとってはとても重要なポイントだ。寄せ集めたもの自体はそれぞれ特有の「内容」(意味、哲学、感情)を持っている。様々なものが、そのまま結合するということは難しい。なかには対立する「内容」もあるだろう。そうしたものに出会ったとき、どうやって「縫い合」わせるのだろうか。あるものは積極的に「誤読」し、「誤読」した「内容」をもとに「縫い合」わせるということがあるのではないだろうか。
「出典」をそのまま踏まえるというよりは、その「出典」のなかへ「思い」を刷り込ませる。「思い」によって「出典」を「誤読」し、「神話」として継承する。そういうことは古代の出雲のひとたちがしたことであり、また、この詩集で入沢がやろうとしていることなのではないだろうか。
「誤読」の系譜を探り、「誤読」の系譜を引き継ぎ、発展させる詩。そのことばのなかにあるのは、「誤読」に託した人の「思い」である。「誤読」でしか託せない人の「思い」である。
*
引用した部分の最後の1行については、すでに様々な解釈がある。「出雲建」を刀の取り替えによって殺害する、殺害されたという二通りの読み方があり、その読み方によって「あわれ」は「アア、オカシイ、ザマヲミロ」となり、一方で「カワイソウダ、キノドクダ」ともなることを入沢は紹介している。また「見事だ」という読み方も紹介している。その紹介(自注)のなかに、とても興味深い部分がある。
島越憲三郎の『出雲神話の成立』を引用している。
この部分の「替え歌」に入沢は「傍点」を打ち(ネット上なので、注釈で説明しておく)、「傍点、入沢」とわざわざ記している。
入沢は島越の説に注目しているが、その注目は「替え歌」という部分に集中している。「替え歌」とは「誤読」である。ほんとうは違う意味を持っている。しかし、その意味には満足せず、自分の(大衆の)思いを託し、意味を乗っ取る。それが、ここでいう「替え歌」だ。
歌の作者の思いも大切だろうが、大衆は作者の思いとは関係なく、歌を自分の気持ちを代弁してくれるものとして受け止め、引き継いで行く。そのとき「誤読」があらわれる。「誤読」があるからこそ、歌は大衆のなかで生きていく。
入沢は、そういう「誤読」を積極的にすくいとろうとしている。そうした「誤読」のなかに、ことばを持たない人々(自分からことばを発し、歌に思いを託す術を知らない人々)の知恵を感じている。自分では「歌」はつくれない。しかし、他人がつくった「歌」を利用して、自分の「思い」を託すことはできる。しかも、そのとき託した「思い」は「歌」をつくった人の「思い」とは正反対であることさえ可能なのだ。
「誤読」、継承された「誤読」には、歌人・詩人のことばとは違った、不可思議な可能性があるのだ。その可能性に入沢は引き込まれるようにしてのめりこんで行く。
この詩集もまた「誤読」で成り立っている。「間違えて読む、誤解」ではなく、「事実」とは違うこと、自分の思っていることを他人のことばに託し、読み替えるという意識で成り立っている。入沢が、というより、入沢はそういう「誤読」が日本語の歴史のなかで繰り返されてきたと見ている。
やつめさす
出雲
よせあつめ 縫い合された国
出雲
借りものの まがいものの
出雲よ
さみなしにあわれ
この詩集には膨大な注がついている。「出雲神話」が出雲以外の地方の神話の寄せ集めでてきているというが、入沢のこの詩集のことばも、多くの「出典」を持っている。いわば「出雲神話」と同じ構造を持っている。
そして「出典」を寄せ集めるだけではなく、「縫い合」わせるということが、「誤読」にとってはとても重要なポイントだ。寄せ集めたもの自体はそれぞれ特有の「内容」(意味、哲学、感情)を持っている。様々なものが、そのまま結合するということは難しい。なかには対立する「内容」もあるだろう。そうしたものに出会ったとき、どうやって「縫い合」わせるのだろうか。あるものは積極的に「誤読」し、「誤読」した「内容」をもとに「縫い合」わせるということがあるのではないだろうか。
「出典」をそのまま踏まえるというよりは、その「出典」のなかへ「思い」を刷り込ませる。「思い」によって「出典」を「誤読」し、「神話」として継承する。そういうことは古代の出雲のひとたちがしたことであり、また、この詩集で入沢がやろうとしていることなのではないだろうか。
「誤読」の系譜を探り、「誤読」の系譜を引き継ぎ、発展させる詩。そのことばのなかにあるのは、「誤読」に託した人の「思い」である。「誤読」でしか託せない人の「思い」である。
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引用した部分の最後の1行については、すでに様々な解釈がある。「出雲建」を刀の取り替えによって殺害する、殺害されたという二通りの読み方があり、その読み方によって「あわれ」は「アア、オカシイ、ザマヲミロ」となり、一方で「カワイソウダ、キノドクダ」ともなることを入沢は紹介している。また「見事だ」という読み方も紹介している。その紹介(自注)のなかに、とても興味深い部分がある。
島越憲三郎の『出雲神話の成立』を引用している。
末尾の『あはれ』もあっぱれ見事だき讃えた言葉である。出雲の勇士を讃美した唄が、替え歌として、彼らの勇士の没落をうたう哀歌となったのであろう。
この部分の「替え歌」に入沢は「傍点」を打ち(ネット上なので、注釈で説明しておく)、「傍点、入沢」とわざわざ記している。
入沢は島越の説に注目しているが、その注目は「替え歌」という部分に集中している。「替え歌」とは「誤読」である。ほんとうは違う意味を持っている。しかし、その意味には満足せず、自分の(大衆の)思いを託し、意味を乗っ取る。それが、ここでいう「替え歌」だ。
歌の作者の思いも大切だろうが、大衆は作者の思いとは関係なく、歌を自分の気持ちを代弁してくれるものとして受け止め、引き継いで行く。そのとき「誤読」があらわれる。「誤読」があるからこそ、歌は大衆のなかで生きていく。
入沢は、そういう「誤読」を積極的にすくいとろうとしている。そうした「誤読」のなかに、ことばを持たない人々(自分からことばを発し、歌に思いを託す術を知らない人々)の知恵を感じている。自分では「歌」はつくれない。しかし、他人がつくった「歌」を利用して、自分の「思い」を託すことはできる。しかも、そのとき託した「思い」は「歌」をつくった人の「思い」とは正反対であることさえ可能なのだ。
「誤読」、継承された「誤読」には、歌人・詩人のことばとは違った、不可思議な可能性があるのだ。その可能性に入沢は引き込まれるようにしてのめりこんで行く。