詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ28)

2007-05-24 23:25:41 | 詩集
 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「第五のエスキス」はそれまでの素描と大きく異なる。「一」の書き出し。

あなたたちに追はれる(あるひはあなたたちを迎へる)私
の長旅のなかばで、つひにとりかへすすべもなく失はれた
私の真の役割。

 主客が逆転する。それまでは「私たち」が「あなた」を追ってきた。「追われる」立場の人間が「私」になり、「追う」方が「あなたたち」になる。「私たち」は「座亜謙什と名乗った人」を追っていたが、「第五のエスキス」では「座亜謙什と名乗った人」が「私」になって追われている。
 これは「事実」を複数の視点からとらえなおし、より客観的にするためのものだろうか。それともさらに「誤読」をつみかさねるためのものだろうか。
 「座亜謙什と名乗った人」がいまも生きていて、その生きている人物そのものを追っているのなら、立場をかえてみるというのは客観的なものを引き出すのに役立つだろう。しかし、もし「座亜謙什と名乗った人」がすでに存在せず、「座亜謙什と名乗った人」の視線そのものが「架空」のものだとしたら、どうなるだろう。
 そこには「座亜謙什と名乗った人」には、彼を追っている「私たち」をこんなふうに見てもらいたい、「座亜謙什と名乗った人」にとっての「あなたたち」はこうとらえられたいという欲望が反映されていないだろうか。きっと反映されるはずである。
 「誤読」と「誤読」がぶつかりあう。
 マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、そしてここでは「誤読」の上に「誤読」がつみかさねられることで、「誤読」ではないものが浮かび上がる--そういうことが意図されているのである。最初の「誤読」を、もうひとつの「誤読」が「誤読」であると指摘する。そうすることで最初の「誤読」が修正される。ただし、掛け算であるから、最初の「誤読」から「誤読」部分を削除するという形の修正ではなく、「誤読」に「誤読」をつみかさねることで、最初の「誤読」ではたどりつけない領域に達する、「誤読」を超越するということが意図されていることになる。

 「誤読」の超越とは何か。

 「二」の部分を対比してみる。(「エスキス」から「第四のエスキス」の部分は「エスキス」で代表させておく。)ここに誤読の「超越」の手がかりがある。

私たちは時折り踏み迷ふ、あなたの作つた庭で。
                               (「エスキス」)

あなたたちは終始踏み迷ふ、私の作つた地質図の上で。
                            (「第五のエスキス」)

 「座亜謙什と名乗った人」が作ったのは何だろうか。「庭」だろうか。「地質図」だろうか。「ことばで書かれた庭」「ことばで書かれた地質図」というふうに補ってみると、「ことばで書かれた」が共通する。「私たち」は「座亜謙什と名乗った人」の「ことば」のなかで迷っているのである。
 もうひとつ、大きく違うものがある。「時折り」と「終始」。「私たち」は「時折り」迷っている(たいていは迷っていない、正確にあなたのことばをたどり、理解している)と感じている。しかし、「座亜謙什と名乗った人」から見れば、それは「終始」である。「座亜謙什と名乗った人」は、「座亜謙什と名乗った人」の残したことばを「私たち」が迷わずに辿っているとは感じていない。常に(終始)「誤読」の領域へ迷い込んでいると感じている。
 この「時折り」と「終始」の対比から明らかになるのは、「座亜謙什と名乗った人」への絶対的な評価である。
 この絶対的な評価こそが「誤読」の「超越」である。「座亜謙什と名乗った人」、そしてそのことばの世界が「絶対的」であると想定すること。そこに「超越」がある。

 「座亜謙什と名乗った人」の世界を「私たち」はたどり、ある程度「正確に理解」しているつもりだが、それは「私たち」の希望的観測であり、「座亜謙什と名乗った人」から見れば「終始」、「誤読」している。「私たち」は「正しい理解」の仕方では「座亜謙什と名乗った人」の世界にはたどりつけない。彼の世界は、「私たち」を「超越」しているのだ。

 「超越」の発見。それこそが「誤読」の目指すところなのである。あらゆる「誤読」は「私」を超えたものの発見とともにある。そして、その発見した「超越」にあずかろうとする、あずかりたいと願うからこそ「誤読」が生まれる。
 この「誤読」による「超越」の発見は、別のことばで言えば「楽観」である。「第五のエスキス」の「三」の部分に「楽観」は出てくる。「途方もない楽観」と。

「あなたの後姿がちらと見えたと思つたのは、あれは流砂
のほとり」とあなたたちは読み、私がその途方もない楽観
ぶりにひとりいらだつとき、雪が来て、馬たちを埋める。

 「悲観」ではなく「楽観」。なぜか。「誤読」と「超越」の発見は、「私たち」のできないことをするスーパースターの発見だからである。

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林嗣夫「花ものがたり 35 梅花幻想」、小松弘愛「ここなく」

2007-05-24 09:55:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 林嗣夫「花ものがたり 35 梅花幻想」、小松弘愛「ここなく」(「兆」134、2007年05月07日発行)。
 林嗣夫「花ものがたり 35 梅花幻想」は行分けのスタイルで始まり、途中から1行が長くなり、散文のようなスタイルになる。

ロビーに入り エレベーターに乗り
廊下を歩き 自分の部屋に向かうのだが
部屋はどこだったかな この階にまちがいはないのだが
番号がわからない わたしの頭のすみにはまだ小さな風が住みつ
いているらしく ドアの並ぶ壁面が揺れ 廊下がたわむ あるいは
かすかに傾斜する 番号の順序をたよりにやっと自分の部屋にたど
り着いた キーを差し込む うまくいかない もう一度キーを差し
込む 回らない どうしたことだろう まちがえたかな

 意識のもつれぐあいがそのまま1行の長さの変化となっている。そのもつれた部分の「あるいは」ということばに私はびっくりしてしまった。林はとても冷静な人間だ。私にとって、夢というか錯乱の世界には「あるいは」は存在しない。そして、そして、そして、とどんな矛盾も「そして」でつながってしまい、つながってしまうことのなかに、のがれられなくなる悪夢がある。
 「そして」ということばは書かれないが、林の「幻想」も「そして」の連続でつながっていくことは、その後を読めばわかる。
 なぜ林は「あるいは」ということば、何かを対比することばを書いたのだろうか。対比の感覚、冷静な感覚を捨てるために、あえて「あるいは」を書いたのだろう。だからこそ、林のことばは「幻想」のなかでずるずるとのめりこみ、ホテルが生家にかわり、その向こうから満開の梅の花があらわれる。
 意識を捨てる、その捨て方がおもしろいと思った。



 小松弘愛「ここなく」。「ここなくで草をかった人/道具が落ちていましたので/預かっています」という立て札を見て、小松は「ここなく」という方言があったことを思いだす。「なく」は「ここ」「そこ」「あこ」「どこ」のあとについて場所を指示する。「なく」がなくても意味はかわらない。そういうことを考えた後……。

時代は あらかた
「……なく」を刈り取ってしまい

わたしは
「ここなく」
の立札の杭(くい)に
子供の頃に飼っていた山羊の親子をつなぎ
しばらく草を食べさせてみる

 小松は「なく」と同じように消えてしまった思い出をそっとひっぱりだして眺めてみる。この抒情への変化がとても自然で、あたたかい。山羊を見るように「なく」を見つめている視線を感じる。

 このあたたかな視線は魅力的だが、それよりももっとおもしろい部分がこの詩にはある。

 ここなくで草を刈った人
 道具が落ちていましたので
 預かっています
 ……

「……」は預かっている人の電話番号
「道具」とは何のことだろう
草刈り鎌?

 「 ……//「……」は預かっている人の電話番号」。この部分に、私は小松の正直なこころを感じる。「山羊」の部分もすてきだが、この部分の方がもっとすてきだ。魅力的だ。
 この部分は「ここなく」について考えるとき、まったく不要なものである。「 ……//「……」は預かっている人の電話番号」がなくても、小松の書いていること、その「論理的意味」はまったくかわらない。省略されていた方が論理がすっきりするかもしれない。
 それでも書かずにはいられないのだ。
 小松の目の前にそれがある。それがあるなら、それがあるままに書く。その姿勢が土佐方言をめぐる小松の詩の基本姿勢なのだと思う。
 方言があるとき、そこには人間がいる。方言だけが、ことばだけが存在するのではなく、人間がいて、人間が生きているということがある。そこには「余分なもの」がたくさんある。何かを考えるとき、私たちはそういうものを省略して考える。「方言」のかかえこむ余分なもの、たとえば「ここなく」の「なく」を省略して、ものごとを考える。そして、その省略によって具体的な不都合が起きるわけではないから、そういう省略は加速する。それは視点をかえていえば、切り捨てたものがそれだけ増えるということでもある。
 小松は、そういう切り捨てたものをもう一度見つめてみようとしているのだ。無意識に切り捨てたものを見つめなおそうとしている。
 そうした切り捨て(省略)のなかには「電話番号」のように「……」と伏せて書くしかないものもあるかもしれない。しかし、それは存在する。存在した。存在するもの、存在したものを、存在する、存在したと意識するこころだけが、「山羊」の記憶のような美しいものを、もう一度輝かせる。
 そして、その延長線上に、さらにさらに美しいものが、小松の記憶を(意識を)越えてあらわれる。まるで「土佐」に生きている人間のすべてのこころを通過してきたかのように、美しいものがあらわれる。
 最終連。

そして
「あこなく」
と 腕を斜め上方に伸ばしてもよいあたりに
ぽかっと浮かんでいる白い雲
あまり形はよくないが
その昔の
握り飯のような雲を眺めることになった。

 この美しさは、「 ……//「……」は預かっている人の電話番号」を通ってこないことにはたどりつけない美しさだ。
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