入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
「第五のエスキス」はそれまでの素描と大きく異なる。「一」の書き出し。
主客が逆転する。それまでは「私たち」が「あなた」を追ってきた。「追われる」立場の人間が「私」になり、「追う」方が「あなたたち」になる。「私たち」は「座亜謙什と名乗った人」を追っていたが、「第五のエスキス」では「座亜謙什と名乗った人」が「私」になって追われている。
これは「事実」を複数の視点からとらえなおし、より客観的にするためのものだろうか。それともさらに「誤読」をつみかさねるためのものだろうか。
「座亜謙什と名乗った人」がいまも生きていて、その生きている人物そのものを追っているのなら、立場をかえてみるというのは客観的なものを引き出すのに役立つだろう。しかし、もし「座亜謙什と名乗った人」がすでに存在せず、「座亜謙什と名乗った人」の視線そのものが「架空」のものだとしたら、どうなるだろう。
そこには「座亜謙什と名乗った人」には、彼を追っている「私たち」をこんなふうに見てもらいたい、「座亜謙什と名乗った人」にとっての「あなたたち」はこうとらえられたいという欲望が反映されていないだろうか。きっと反映されるはずである。
「誤読」と「誤読」がぶつかりあう。
マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、そしてここでは「誤読」の上に「誤読」がつみかさねられることで、「誤読」ではないものが浮かび上がる--そういうことが意図されているのである。最初の「誤読」を、もうひとつの「誤読」が「誤読」であると指摘する。そうすることで最初の「誤読」が修正される。ただし、掛け算であるから、最初の「誤読」から「誤読」部分を削除するという形の修正ではなく、「誤読」に「誤読」をつみかさねることで、最初の「誤読」ではたどりつけない領域に達する、「誤読」を超越するということが意図されていることになる。
「誤読」の超越とは何か。
「二」の部分を対比してみる。(「エスキス」から「第四のエスキス」の部分は「エスキス」で代表させておく。)ここに誤読の「超越」の手がかりがある。
「座亜謙什と名乗った人」が作ったのは何だろうか。「庭」だろうか。「地質図」だろうか。「ことばで書かれた庭」「ことばで書かれた地質図」というふうに補ってみると、「ことばで書かれた」が共通する。「私たち」は「座亜謙什と名乗った人」の「ことば」のなかで迷っているのである。
もうひとつ、大きく違うものがある。「時折り」と「終始」。「私たち」は「時折り」迷っている(たいていは迷っていない、正確にあなたのことばをたどり、理解している)と感じている。しかし、「座亜謙什と名乗った人」から見れば、それは「終始」である。「座亜謙什と名乗った人」は、「座亜謙什と名乗った人」の残したことばを「私たち」が迷わずに辿っているとは感じていない。常に(終始)「誤読」の領域へ迷い込んでいると感じている。
この「時折り」と「終始」の対比から明らかになるのは、「座亜謙什と名乗った人」への絶対的な評価である。
この絶対的な評価こそが「誤読」の「超越」である。「座亜謙什と名乗った人」、そしてそのことばの世界が「絶対的」であると想定すること。そこに「超越」がある。
「座亜謙什と名乗った人」の世界を「私たち」はたどり、ある程度「正確に理解」しているつもりだが、それは「私たち」の希望的観測であり、「座亜謙什と名乗った人」から見れば「終始」、「誤読」している。「私たち」は「正しい理解」の仕方では「座亜謙什と名乗った人」の世界にはたどりつけない。彼の世界は、「私たち」を「超越」しているのだ。
「超越」の発見。それこそが「誤読」の目指すところなのである。あらゆる「誤読」は「私」を超えたものの発見とともにある。そして、その発見した「超越」にあずかろうとする、あずかりたいと願うからこそ「誤読」が生まれる。
この「誤読」による「超越」の発見は、別のことばで言えば「楽観」である。「第五のエスキス」の「三」の部分に「楽観」は出てくる。「途方もない楽観」と。
「悲観」ではなく「楽観」。なぜか。「誤読」と「超越」の発見は、「私たち」のできないことをするスーパースターの発見だからである。
「第五のエスキス」はそれまでの素描と大きく異なる。「一」の書き出し。
あなたたちに追はれる(あるひはあなたたちを迎へる)私
の長旅のなかばで、つひにとりかへすすべもなく失はれた
私の真の役割。
主客が逆転する。それまでは「私たち」が「あなた」を追ってきた。「追われる」立場の人間が「私」になり、「追う」方が「あなたたち」になる。「私たち」は「座亜謙什と名乗った人」を追っていたが、「第五のエスキス」では「座亜謙什と名乗った人」が「私」になって追われている。
これは「事実」を複数の視点からとらえなおし、より客観的にするためのものだろうか。それともさらに「誤読」をつみかさねるためのものだろうか。
「座亜謙什と名乗った人」がいまも生きていて、その生きている人物そのものを追っているのなら、立場をかえてみるというのは客観的なものを引き出すのに役立つだろう。しかし、もし「座亜謙什と名乗った人」がすでに存在せず、「座亜謙什と名乗った人」の視線そのものが「架空」のものだとしたら、どうなるだろう。
そこには「座亜謙什と名乗った人」には、彼を追っている「私たち」をこんなふうに見てもらいたい、「座亜謙什と名乗った人」にとっての「あなたたち」はこうとらえられたいという欲望が反映されていないだろうか。きっと反映されるはずである。
「誤読」と「誤読」がぶつかりあう。
マイナスとマイナスをかけるとプラスになるように、そしてここでは「誤読」の上に「誤読」がつみかさねられることで、「誤読」ではないものが浮かび上がる--そういうことが意図されているのである。最初の「誤読」を、もうひとつの「誤読」が「誤読」であると指摘する。そうすることで最初の「誤読」が修正される。ただし、掛け算であるから、最初の「誤読」から「誤読」部分を削除するという形の修正ではなく、「誤読」に「誤読」をつみかさねることで、最初の「誤読」ではたどりつけない領域に達する、「誤読」を超越するということが意図されていることになる。
「誤読」の超越とは何か。
「二」の部分を対比してみる。(「エスキス」から「第四のエスキス」の部分は「エスキス」で代表させておく。)ここに誤読の「超越」の手がかりがある。
私たちは時折り踏み迷ふ、あなたの作つた庭で。
(「エスキス」)
あなたたちは終始踏み迷ふ、私の作つた地質図の上で。
(「第五のエスキス」)
「座亜謙什と名乗った人」が作ったのは何だろうか。「庭」だろうか。「地質図」だろうか。「ことばで書かれた庭」「ことばで書かれた地質図」というふうに補ってみると、「ことばで書かれた」が共通する。「私たち」は「座亜謙什と名乗った人」の「ことば」のなかで迷っているのである。
もうひとつ、大きく違うものがある。「時折り」と「終始」。「私たち」は「時折り」迷っている(たいていは迷っていない、正確にあなたのことばをたどり、理解している)と感じている。しかし、「座亜謙什と名乗った人」から見れば、それは「終始」である。「座亜謙什と名乗った人」は、「座亜謙什と名乗った人」の残したことばを「私たち」が迷わずに辿っているとは感じていない。常に(終始)「誤読」の領域へ迷い込んでいると感じている。
この「時折り」と「終始」の対比から明らかになるのは、「座亜謙什と名乗った人」への絶対的な評価である。
この絶対的な評価こそが「誤読」の「超越」である。「座亜謙什と名乗った人」、そしてそのことばの世界が「絶対的」であると想定すること。そこに「超越」がある。
「座亜謙什と名乗った人」の世界を「私たち」はたどり、ある程度「正確に理解」しているつもりだが、それは「私たち」の希望的観測であり、「座亜謙什と名乗った人」から見れば「終始」、「誤読」している。「私たち」は「正しい理解」の仕方では「座亜謙什と名乗った人」の世界にはたどりつけない。彼の世界は、「私たち」を「超越」しているのだ。
「超越」の発見。それこそが「誤読」の目指すところなのである。あらゆる「誤読」は「私」を超えたものの発見とともにある。そして、その発見した「超越」にあずかろうとする、あずかりたいと願うからこそ「誤読」が生まれる。
この「誤読」による「超越」の発見は、別のことばで言えば「楽観」である。「第五のエスキス」の「三」の部分に「楽観」は出てくる。「途方もない楽観」と。
「あなたの後姿がちらと見えたと思つたのは、あれは流砂
のほとり」とあなたたちは読み、私がその途方もない楽観
ぶりにひとりいらだつとき、雪が来て、馬たちを埋める。
「悲観」ではなく「楽観」。なぜか。「誤読」と「超越」の発見は、「私たち」のできないことをするスーパースターの発見だからである。