詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』

2008-02-04 02:13:07 | 詩集
 阿部嘉昭『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田、2008年02月10日発行)
 驚くべき清潔な声である。「地声」というものが阿部嘉昭にあるのかどうかわからない。「地声」を持たない人間というものは存在しないだろうから、この清潔さは鍛練の果ての清潔さだと思う。そして、その「地声」を排除するという鍛練は、同時に洗練された声に自在な運動、軽やかな躍動をもたらしている。あまりの清潔さゆえに、そこでは「意味」が不在になっている。「歌」で言えば「スキャット」である。
 たとえば冒頭の「五月の義」。

哲学後は 沢へと下りた、
山並が自らの下部を抱き込んでいる
眺望の平たい「展け」、
時間への明澄な緩衝帯に
いっとき二人の疲れた徘徊を沿わせた。
透き通る山女の行き交いをさしぐんで視る。
「低くあるもの」がそうして身に馴染む

 山の裾の方を男と女が歩いている--というようなイメージを思い浮かべることができるはできるが、そういうものはスキャットを聴いてもなんとなく、これは恋の歌だな、悲しみの歌だなと勝手に感じる類のものだ。ここで阿部が試みているのは、忍び込んでくる意味は意味としてことばの宿命として、そこから遠く遠くただひたすらことばに、あるいも文字になろうとすることである。純粋なことば(音)になり、文字になることなどほんとうはできないのかもしれないが、そういうものを目指すことで、(意味を拒否することで)、読者を軽やかに遊ばせるということである。
 昨日読んだ森川雅美のことばが暴走を目指しながら肉体によって暴走しきれないのに対し、阿部のことばは暴走は目指さないのに、その肉体を洗い流した清潔さ、軽やかさによって飛翔するのである。飛翔といっても、高く高く舞い上がるのではなく、自然に浮いてしまうのである。ちょうどひとが走っているとき、その両足がほとんど大地に触れていないのと同じように。大地をけって疾走する。そのときの、大地にそったかろやかな飛翔、足運び。もちろんそこには肉体があるだが、超人的な肉体はすでに肉体ではない。鍛えられ、普通のひとの肉体を超越したものである。
 たとえば、

山並が自らの下部を抱き込んでいる

 この行の「下部」ということばの美しさ。どこまでもひろがる不思議な概念の自由さ。意味の枠を取り払いながら、一方で枠を取り払っていますよ、と知らせるユーモア。私自身が書いたものでもないのに、まるで私がそのことばを書いたかのように、私は舞い上がってしまった。こんなきれいな「声」が「下部」といっしょに存在することを知らなかった。
 3行目の「平たい」、5行目の「沿わせた」も同じである。どのことばも私は知っている。知らないことばではない。それなのに、それは新しい。阿部が鍛え上げたことばである。既知のことばを洗い清め、既知を感じさせながら、なお新鮮である。
 それは、疲れた脳髄を新鮮にする。脳の血栓を溶かして、その流れを新しくする。
 6行目の「視る」も、また同じである。「視る」と書いて「みる」と読ませる(のだと思う、私は「みる」と読んだ)ことは阿部以外のひともやっている(と思う。例を探してみなくてもいいだろうと思う)。しかし「さしぐんで」と同時に「視る」と書いたひとはいるだろうか。わからない。そのわからないことが、私には新鮮なのである。「さしぐんで」と「視る」が直接触れ合った形で存在するのを目で読むとき、網膜が洗われる感じがするのだ。その網膜を洗っていく力は、阿部がことばを鍛えたときの力なのである。こういう力に触れたとき、(再び同じことを書いてしまうのだが)、それは私が書いたものではないにもかかわらず、ちょっと自慢したくなる。「ほら、かっこいいだろう。美しいだろう。わかるかな?」といいたくなってしまう。
 実際、美しい。かっこいい。詩のことばは、こんなふうであるべきなのだ。

 阿部の詩がすばらしいのは、そうしたことば、行が、瞬間的にどこかにあらわれるというだけではなく、それが持続することだ。だからこそ鍛えられたことば、という印象を残すのである。阿部が、こうしたことばを獲得するまでに、どれだけ多くのことばをくぐってきたかを感じさせ、同時にしかし、その「苦労(?)」を感じさせないという軽やかさがいいのである。
 2連目。

あすまでに大量の弁別、
あすまでに大量の墨刑。
(墨刑は、私には記述を謂う)
足許を完膚なきまでにすくわれながら
沢水の黒みゆく末路をおもう
茶沢、森沢、馬沢。また、友散沢。
世界下部の通底を 五月の義とした

 「謂う」が美しい。「おもう」のひらがな表記が美しい。(漢字だと、たぶん美しくはない。)そして、何と読むのかわからないが「茶沢、森沢、馬沢。また、友散沢。」の、読めなくてもぜんぜん気にならない美しさ。ほんとうにこれは「スキャット」である。絵で言えば「抽象画」である。そこに音がある。色がある。音があり、色があれば、どうしたってその音、色に付随する「意味」は存在するのだが、阿部のことばは「意味」を拒否し、音になり、文字になる。

 かっこいい。悔しくなるくらいかっこいい。今月読むべき1冊である。絶対に。

コメント (1)
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