監督 ステファン・ルツォヴィッキー 出演 カール・マルコヴィクス、アウグスト・ディール、デーヴィト・シュトリーゾフ、アウグスト・ツィルナーマルティン・ブラムバッハ
ていねいなていねいな画面づくりだ。
冒頭の、主役の背広の、背番号(?)を縫い付けていた部分だけ色変わりしているところなどに、この映画の誠実さがあらわれている。主人公は第二次大戦中、ナチスにとらえられていた。そして、贋札をつくることでいのちをつないできた。背広の背番号のぬいつけのあとは、彼がアウシュビッツにいたことを象徴している。そして、その象徴が、単に主人公の悲劇を象徴するだけではなく、彼のこころも象徴している。そんなふうに展開して行く映画の、導入にふさわしい、静かで落ち着いた映像である。
背番号に隠されていた部分だけ、背広は、もとの生地のままの色をしている。なまなましく、なまめかしく、そのことが逆に悲劇を具体的に語っているのだが、そのふいにあらわれた生地の色のように、いつまでもいつまでも、昔のままの色が、こころのなかにもある。
その、こころの生地のことが、この映画の主題である。
主人公たちはヒトラーの命令で贋札をつくっている。贋札を流通させることでアメリカ経済を破綻させるというのがヒトラーの作戦である。その作戦に従事しているかぎり主人公たちは生きていることができる。しかし、自分たちがそうやって生きるということはヒトラーに加担することであり、同胞の死に加担することでもある。いのちか、正義か。極限の状況の中で主人公たちは揺れる。絶望だけが深まる。
そして、絶望しながらも、やはりいまそこに生きているいのちのために、仲間のために、できる限りのことをする。仲間が結核に感染し、苦しんでいればなんとか薬を手に入れようとする。偽ドルを完成させたくないという思いで仕事をしない男に対しても、強要はしない。彼の判断をあくまでも尊重する。ただ生きたいというだけではなく、生きながら、生きることでなんとかそれぞれの意思を明らかにしたいと思う。ひとそれぞれの意思を裏切るようなことはしたくないと思う。最低限、仲間を裏切らないという正義を守ろうとする。ひととひととのつながりを守りたいと思う。絶望しながらも、彼らは、仲間に対してすこしずつやさしくなっていく。--そういうこころの動きを、私は、こころの生地と呼ぶ。
色彩を抑えた画面がとても効果的だ。収容所なのだから派手な色がなくて当然といえば当然なのだが、主人公たちの無彩色の服の色がとてもいい。室内の無彩色の、光と影がとてもいい。否定され、殺されたいくつもの色の内側で、その暗い色の内側で、人間の肉体がかなしくいのちを燃やし続けているのだ。そういう炎を浮かび上がらせる色だといってもいい。(ティム・バートン監督の「スウィニー・トッド」の作為的な暗い色とはまったく違う。)
主役のカール・マルコヴィクスはマックス・フォン・シドーにちょっと似ている。はじめてみるが(何かに出ているかもしれないが、意識したのははじめてである)、秘めた力を感じさせる。冷静、沈着、ときには冷酷にさえ見えるが、その肉体の中で絶望の炎が燃えている。熱い熱い涙となって、流れもする。彼のなかにある不思議な光が、ひとをひきつける。贋札づくりを命じるナチスの指揮官さえもひきつける。指揮官のこころさえも裸にさせる。
この映画につかわれている色彩は少ない。数少ない色のなかにある色の変化、たとえば冒頭の背番号で隠されていた部分と日にさらされ続けた部分の色の違いのような、微妙な変化--それを見るための映画である。こころの、微妙ないろの変化を見るための映画である。舞台がかぎられ芝居のような映画でもあるが、この微妙な色の変化は、たしかに映画でしか伝えられないものを持っている。
2008年の正月映画にはおもしろいものがなかったが、ようやく映画らしい映画が登場した。
ていねいなていねいな画面づくりだ。
冒頭の、主役の背広の、背番号(?)を縫い付けていた部分だけ色変わりしているところなどに、この映画の誠実さがあらわれている。主人公は第二次大戦中、ナチスにとらえられていた。そして、贋札をつくることでいのちをつないできた。背広の背番号のぬいつけのあとは、彼がアウシュビッツにいたことを象徴している。そして、その象徴が、単に主人公の悲劇を象徴するだけではなく、彼のこころも象徴している。そんなふうに展開して行く映画の、導入にふさわしい、静かで落ち着いた映像である。
背番号に隠されていた部分だけ、背広は、もとの生地のままの色をしている。なまなましく、なまめかしく、そのことが逆に悲劇を具体的に語っているのだが、そのふいにあらわれた生地の色のように、いつまでもいつまでも、昔のままの色が、こころのなかにもある。
その、こころの生地のことが、この映画の主題である。
主人公たちはヒトラーの命令で贋札をつくっている。贋札を流通させることでアメリカ経済を破綻させるというのがヒトラーの作戦である。その作戦に従事しているかぎり主人公たちは生きていることができる。しかし、自分たちがそうやって生きるということはヒトラーに加担することであり、同胞の死に加担することでもある。いのちか、正義か。極限の状況の中で主人公たちは揺れる。絶望だけが深まる。
そして、絶望しながらも、やはりいまそこに生きているいのちのために、仲間のために、できる限りのことをする。仲間が結核に感染し、苦しんでいればなんとか薬を手に入れようとする。偽ドルを完成させたくないという思いで仕事をしない男に対しても、強要はしない。彼の判断をあくまでも尊重する。ただ生きたいというだけではなく、生きながら、生きることでなんとかそれぞれの意思を明らかにしたいと思う。ひとそれぞれの意思を裏切るようなことはしたくないと思う。最低限、仲間を裏切らないという正義を守ろうとする。ひととひととのつながりを守りたいと思う。絶望しながらも、彼らは、仲間に対してすこしずつやさしくなっていく。--そういうこころの動きを、私は、こころの生地と呼ぶ。
色彩を抑えた画面がとても効果的だ。収容所なのだから派手な色がなくて当然といえば当然なのだが、主人公たちの無彩色の服の色がとてもいい。室内の無彩色の、光と影がとてもいい。否定され、殺されたいくつもの色の内側で、その暗い色の内側で、人間の肉体がかなしくいのちを燃やし続けているのだ。そういう炎を浮かび上がらせる色だといってもいい。(ティム・バートン監督の「スウィニー・トッド」の作為的な暗い色とはまったく違う。)
主役のカール・マルコヴィクスはマックス・フォン・シドーにちょっと似ている。はじめてみるが(何かに出ているかもしれないが、意識したのははじめてである)、秘めた力を感じさせる。冷静、沈着、ときには冷酷にさえ見えるが、その肉体の中で絶望の炎が燃えている。熱い熱い涙となって、流れもする。彼のなかにある不思議な光が、ひとをひきつける。贋札づくりを命じるナチスの指揮官さえもひきつける。指揮官のこころさえも裸にさせる。
この映画につかわれている色彩は少ない。数少ない色のなかにある色の変化、たとえば冒頭の背番号で隠されていた部分と日にさらされ続けた部分の色の違いのような、微妙な変化--それを見るための映画である。こころの、微妙ないろの変化を見るための映画である。舞台がかぎられ芝居のような映画でもあるが、この微妙な色の変化は、たしかに映画でしか伝えられないものを持っている。
2008年の正月映画にはおもしろいものがなかったが、ようやく映画らしい映画が登場した。