詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

滝悦子「DUST」

2008-02-21 10:33:29 | 詩(雑誌・同人誌)
滝悦子「DUST」(「夜凍河」13、2007年12月発行)
 読点「、」のなかに何が存在するか。滝の詩を読みながら、ふと思った。「DUST」の書き出し。

閉ざされたブラインド
その羽を細くあける、と

月の夜だね
西風が吹いているね

 滝は正確に息づかいを読点「、」にこめている。改行にも呼吸の間合いをこめている。滝にとっては、呼吸、間合いというものこそ詩なのだろう。
 1連目の2行も、よく読むと読点意外にも静かな息づかいの動きがある。「閉ざされたブラインドの/羽を細くあける、と」ではなく、いったん「閉ざされたブラインド」と対象を提示しておいて、そこから「その羽を細くあける」という具合に焦点を絞っていく。「その」という指示、その焦点の絞り方が、そのまま「細く」を導き出している。「その」と「細く」が呼吸し合っている。そういう呼吸をしっかりと見極めた上で「、と」と、読点を含んだことばが引き受ける。このリズムはとても気持ちがいい。引き込まれる。
 そうした呼吸のリズムがきちんとしているからこそ、1行空きのあとの転調が楽に(スムーズに)響いてくる。「月の夜だね/西風が吹いているね」。解放された口語。そして、その「ね」の脚韻というにはおおげさすぎるけれど、静かな繰り返しも、自分自身への問いかけ、自問自答にぴったりしている。

ガラス張りの
ビルに反射しているのは
視界の外を出て行く船で
予約リストに名前を書くのはいつの日だろう

 この詩を読みながらくやしく感じるのは、この連のことばがうるさいことである。1連、2連と呼吸を大切に書いてきているのに、ここでは呼吸が忘れられている。意味が、書きたい対象がのさばっていて、呼吸を殺してしまっている。1、2連目の呼吸を引き継ぎながら3連目を読むことは私には難しい。2連目と3連目の1行空きで、もう一度転調するのだと言われればそうなのだろうが、もしここでほんとうに滝が転調を狙っているのだとしたら、つぎにもう一度転調があって、いわゆる「起・承・転・結」というスタイルになるのでなければ、形式的にむりがあると思う。そういう形式なら、3連目は転調になるけれど、そうなっていないので、どうしても、あ、呼吸が突然乱れてしまった、という印象になってしまう。とても残念だ。

 「TRIP Ⅳ」でも、滝は読点「、」をつかって呼吸を制御している。呼吸のなかにある思いをなんとか表出しようとしている。その書き出し。

霧は
裸の落葉樹から生まれている、と
確認する夜

続いているような 行き止まりのような中を
歩きながら
私は方角を知っているのだと思う

 1行ごとの呼吸を大切にしている、ことばを呼吸という肉体でしっかり受け止め、そうすることで肉体の中にあるもの、ことばとして定着していないものをきちんと書いていこうとする精神の動きを強く感じる。「続いているような 行き止まりのような中を」の1字空きにも、精神の動きと呼吸の関係を感じる。こういう繊細な息づかいが私はとても好きだが、滝は、私の感じではその息づかいを途中から忘れてしまう。途中からことばが暴走する。静かな呼吸が荒くなる。呼吸がととのったから、そのあとは駆けられるところまで駆けて行くのだ、ということなのかもしれないが、どうもピンとこない。ことばの駆け方が最初のていねいな呼吸とそぐわない--これはもちろん私の呼吸の感じとあわないというだけのことであって、滝の呼吸がぴったりくるひともいるかもしれないのだが。

コメント
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