詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

砂川公子『櫂の音』

2008-02-08 00:34:47 | 詩集
 砂川公子『櫂の音』(能登印刷出版部、2007年11月15日発行)
 「櫂の音」の冒頭。

柄のない櫂に漕がれて
一艘の丸木舟が
ひたっひたっと
耳の空に現れる
とおい昔は水だったんだと
どこかなつかしい韻(ひび)きを連れて
ここちよく肉へ肉へと打ってくる
まだひとではなかったころの
水の記憶として
その櫂は出土したのだった

 「耳の空」がとても不思議である。しかし、これが「耳の海」だったら、私は感動したかどうかわからない。出土した櫂、柄のない櫂を見る。そのとき音が聞こえる。「ひたっひたっ」。それはもちろん現実の音ではない。いわば「空耳」である。だが、それが「空耳」だから「耳の空」に感動したのではない。そうではなく、(そういう語呂合わせではあく)、耳がそこに存在しないとき聞く音--その空気の振動が、そのまま「空」を呼びお寄せる。そのことに感動した。丸木船は水の上をやってくるのではなく、あくまで空中(そら)に浮かんでやってくる。その、一種のありえないこと姿が、より世界をリアルに感じさせる。船が空を、あたかも水を渡るように渡ってきても、何も不思議はない。その船は、「幻」という現実だからだ。というよりも、空を渡ってくることによって、その非現実によって、現実を覚醒させる。より強く、水を、海を呼び寄せる。
 「まだひとでなかったころの」という1行が、また、すばらしい。
 「ひと」が「ひと」ではないように、空も空ではない。海も海ではない。それらは溶け合って、まだ何にもなっていない。混沌のなかで、何かになろうとしている。まだ、そこにないものになろうとしている。ある一本の木が「櫂」になろうとする。その動きに合わせて、丸木は丸木船になる。そして、空は空になる。水(海)は海になる。海が海になりきってしまうまでのあいだ、船は空を渡ってもかまわないのだ。
 何もかもが、何かになる。ひとはひとになる。ひとはひとではなかった「ころ」があるのだ。この「ころ」という響きもとても美しい。幅がある。そのはばを丸く、やわらかく、球(宇宙のまるさに通じる)もののように指し示す「ころ」。そのなかですべての変化が起きる。
 肉体は(ひとは)、そういうもの、まだ何かになってしまっていないものと触れ合いながら、その瞬間瞬間に、何かになる。それを砂川は呼吸する。「空気」(これは「空」につながるものだ)を呼吸する。そうして、何かがはじまる。
 「耳の空」の「空」は、そういものともつながっている。

今朝は空が
 肩の辺りまで下りてきている
        (「キリンの朝」)

 この「空」も「空」そのものというよりは「空気」のひろがりそのもののことであるように私には感じられる。「空気」そのものとなって、「空気」という意識になって、ひとを、ひとでなかったころに連れ戻す。なんだか自分が自分でなくなる。(この詩では「キリン」になってしまう。)そういう変化の中に、常に、砂川の場合は「空気」(空)が関係している。
 「猫のポーズ」の書き出し。

あかり障子いちまい 隔つむこうが彼岸
会いたい時は 猫になる
   (四つん這い
     吸う息で
     胸をひらき
     ない尾を ぴんと立て
     眼を 空に返す

 これはヨガのポーズのことなのかもしれないが、その、呼吸(息を吸う--空気を、空を、体のなかにいれること)が、ここでも砂川をひとではないようにする。ひとがひとではなかったころ、にいったん戻って、そこから「ねこ」になってゆく。
 空気を取り込む、というのは、空気を通ってということと同じことなのかもしれない。すべてのものを区別なく受け入れる空気。その空気を吸い込み、空気そのものになって、それからひとにも、猫にも、櫂にも、丸木舟にもなるのである。
 「櫂の音」は「耳の海」ではなく、「耳の空」に現れなければならない理由は、ここにある。


コメント
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