詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

左子真由美「花とノートブック」ほか

2008-02-06 10:39:09 | 詩(雑誌・同人誌)
 左子真由美「花とノートブック」ほか(「イリヤ」2、2008年01月31日発行)
 左子真由美の作品が4篇発表されている。どの作品も読んで耳にやさしいように書かれている。繰り返しが耳にここちよい。ことばには繰り返すことによって、意味がつよくなる。感情が強くなる。「花とノートブック」は、意味・感情が強くなり、同時に意味・感情が別のものになるまでを描いている。(4篇のなかでは、この作品が、繰り返しがいちばん効果的に働いていると思う。)

男は
ノートブック
女は
そのなかに
挟まれた花

好きな女のために
死ねるよ


そのノートブックには
書いてある

夕暮れには
時々
開くのです

春と夏と
秋と冬があって
始まりと
終わりもある
そのノートブックを
そうして
読み返します
なんどでも

好きな女のために
死ねるよ


書いてある
そのページを

 「好きな女のために/死ねるよ」は最初は男が書いたことば。そして後の方は女が思い出していることば。女はことばだけではなく、そのときの「感情」を思い出している。男の感情というよりも、そのことばを聞いたときの女自身の感情を。それは、もう手がとどかない。男の感情ではなく、女自身の感情に手がとどかない。あの幸福・愉悦はそこに存在せず、存在したということだけが記憶として残っている。
 女はこのとき、「ノートブック」である。男が「ノートブック」だったはずだが、いまは女が「ノートブック」になっている。「好きな女のために/死ねるよ」ということばが、男のものから女のもの(女の記憶、女の肉体のなかに存在するもの)にかわった瞬間、「ノートブック」も男から女にかわったのである。かわった、というより「なる」。「なろう」とする意志がここにある。
 このふたつの変化が、とても自然に書かれている。その自然さゆえに、この詩は「歌謡曲」(演歌)を少しだけ超えている。その「少し」という部分が左子のことばの動きの魅力だ。「ノートブック」という、ちょっと気取ったことばも、この場合、効果的だ。そこには、私がいままでの私ではない私に「なる」ための背伸びがある。その背伸びが美しい。女の背伸びはいつも美しいと思う。(たとえば「昼下がりの情事」のオードリー・ヘップバーンの背伸びである。)

 ただ、こうした作品が「現代詩」かと問われると、私はちょっと返事に困る。
 どのことばも共有され、流通しすぎている。流通しすぎていて、もはやそれが流通しているということさえ忘れ去られようとしている。別なことばで言えば、こういう表現は、すでに表現として誰もつかわなくなっている。
 誰もつかわなくなった表現をもういちど掘り起こす--というのなら、それはそれでとてもすばらしいことだと思うけれど、左子がそういうことを狙っているのかどうかは、実は、よくわからない。

 佐古祐二の作品も同じである。ことばが裏切らない。流通していることばの意味を裏切らない。そして、その裏切りのなさが、佐古までくると、俗に落ちる。詩ではなくなってしまう。こうしたことを書いても「詩はどこにあるか」という点から言えば何も明らかにしたことにならない。「詩はここにはない」ということになってしまうのだが、あまりにも俗すぎるので、そのことを指摘しておく。
 「もうながいこと、ぼくはおまえと」の1連目。

もうながいこと、ぼくはおまえと何していない。何することの意味などないことは、先刻承知しているが、ぼくはおまえと何することの熱さをおぼえている。おまえのまなじりにあふれてくるものの意味を問うことはしない。ぼくはもとよりおまえ自身がそれを知らないのだから。ああ、不意に燃えさかるものを、ぼくはおまえにそそぎたい。堅く屹立したものをおまえの海が包みこむとき、ぼくは、アンドロメダのはるか彼方を想っている。
   (谷内注・「ああ」は原文は「あ」と「送り文字」)

 詩は、あることばを言い換えることで成立するではない。こうした隠蔽は、セックス、性向、性器、ペニス、ヴァギナ、ちんぽ、おまんこ、ザーメン、子宮というようなことばをつかわないことよりもはるかに下品である。文学は隠蔽でもないし、「きれい」を装うことでもない。いままで存在しなかった美をつくりだすことである。「アンドロメダのはるかかなた」はひとがことばをつかいはじめたときから存在している。

コメント
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