詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「ロビーがさみしい」

2008-02-19 10:04:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 白鳥信也「ロビーがさみしい」(「フットスタンプ」15、2008年02月29日発行)
 白鳥信也の「ロビーがさみしい」は最初の2行がとてもおもしろい。

ロビーがさみしい
なんだかロバが背を向けてせつなくいななきそうじゃないか

 「ロビー」と「ロバ」の音の響きあいがとてもいいのだ。そして、なぜ「ロバ」かということを考えさせる前に、その音を飲み込んでゆく2行目の「な」の繰り返し。「なんだか」と1行目の頭で「な」を印象づけて「せつなくいななきそうじゃないか」。「いななく(き)」のなかにある「な」の重なり。それが「意味」ではなく「音楽」にかわる。その美しさがいい。
 つづく2行もいいなあ。

東側の窓と北側の窓の交差するコーナーに何か置こうじゃないか
心がわきたつオブジェがいいな

 2行目の「じゃないか」が3行目でも繰り返されている。繰り返すことで、そのふたつの「じゃないか」にはさまれたことばが凝縮する。そこにも「東側」「北側」の「が」の繰り返しがあり、「窓」と「窓」の繰り返しがあり、「交差」「コーナー」の「こ」の繰り返し、「コーナー」「何か」の繰り返しがあり、最後の「な」の繰り返しは「コーナー」「何か」「ないか」の「な」と広がり、4行目の「いいな」の「な」で締めくくられる。
 とても気持ちがいい。
 こういう作品は、音楽をどれだげ持続できるか、ということが大切だと思う。白鳥はいろいろ工夫はしているが、だんだん音楽が「意味」に飲み込まれてゆくようである。1連目の残りの5行。

社長はそう言って、社長室のドアをパタンとしめた。
わきたつオブジェと言われても
花瓶に赤いバラじゃいけないかしら
ロバだってちょっとは興奮して外に出ていくんじゃないか
だけどロバなんて連れてくる人なんて見たことないよ

 音楽は「社長」「社長室」の無残な繰り返しでつまずき、すでに遠くなった「わきたつオブジェ」という揺れもどしで破綻し、「花瓶」「赤い」の「か」の繰り返しで音楽の復活を試みることで完全に消えてしまう。「復活」の試みが、すでに存在したものが消えてしまっているからこそ復活させようとしているのだという感覚を呼び起こすのである。こうなると、音楽は復活しない。復活しなくて「沈黙」にかわればまだそれは余韻を生むのだが、音がつづけばつづくほど、それは「雑音」になってしまう。聞き苦しくなる。「バラ」のあとに「ロバ」を呼び出し、「ば」の脚韻を強調するようになると、もうげんなりしてしまう。
 とどめが、

だけどロバなんて連れてくる人なんて見たことないよ
<
blockquote>
 あ、むごい。むごたらしすぎる1行である。ロバなんて、だれも信じてはいない。ロビーとロバの組み合わせなんか、だれも現実とは思っていない。意味があるとは思ってはいない。それでも、あ、もしかしたら「音楽」のなかでロバが単なることば遊びを越境して実在するようになるかもしれないと期待して読んだ気持ちが完全に砕け散ってしまう。

ロビーがさみしい
なんだかロバが背を向けてせつなくいななきそうじゃないか

 この美しいロバはどこへ行ってしまったのだ。
 2連目に「ロバ」は一応登場するが、作者が作者自身で「だけどロバなんて連れてくる人なんて見たことないよ」と「意味」を書いてしまったあとでは、何を書いても同じである。書けば書くほど「意味」にしばられる。
 この作品の最後の1行。

ロバに乗った女の人がどうしたのかよりも気になってしかたがなかった

 ああ、こんなところで音楽にもどろうとしても、そんなことがでるきわけがない。それに「ロバに乗った女の人がどうしたのかよりも気になってしかたがなかった」と書くことは、同時に「ロバに乗った女の人」のことを意識していることを意味する。ブラックホールにひきこまれていくような気分である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする